皆様、こんにちは。三井絹子です。
私はこの文字盤を使って話をします。今日は時間がないので、書いてきた文章を介護者に読んでもらいます。それでは始めます。
今日は、皆様の前でお話しできること、大変にうれしいです。
皆さん、見てください。私は今、介護者に頭を支えられています。なぜか。理由は、生まれてこの方、首が据わったことがないんです。頭を支えられなければ息ができない、すなわち生きていられないんです。
一九四五年五月、疎開先の埼玉で生まれました。母親の強い愛情と、私にも生きる権利があるんだという母の教えのおかげで、現在の私が存在していると思います。
私が二十歳になる前の出来事です。毎晩のように夜遅くまで母親と長男の言い争いの声が響き渡りました。長男が結婚することになり、私と、同じ障害を持つ兄を施設に入れてくれと懇願していたのです。母は、長きにわたる話合いの後に、一家心中するくらいならと施設行きを決め、私たちは入所させられました。
一生いられる施設だと言われた最初の施設から追い出され、次に入れられた施設は、当時東洋一だと言われた都立府中療育センターでした。病院管理のこのセンターでは、私たち障害者はモルモットとして扱われ、人権なんて存在しませんでした。
私は、悔しいにつけ悲しいにつけ、それを日記に書いた。言わば私のはけ口だった。また、それしかはけ口はなかった。
ここで日記を少し紹介します。これは偽りのない全くの事実だということを加えておきます。
六九年九月二十三日。悔しい。本当に悔しい。この世で一番不潔なものをいじるような顔、態度を取る。同じ人間なのに、世話をされる者とする者と、なぜこんなに違うの。手を洗いながら二人は、汚い、嫌ね、全く、どこか行こうか、つらくないところは税金が高いし、安いと思えばこんな変なと話していた。まるっきり金だけが目当てだ。こういう人たちに世話をしてもらっているんだから、私はつらい。つい涙を落としてしまった。
こんなこと、一々母には言えない。知らない、知らなくていいんだ、私さえ我慢すればいいんだから。お昼のときも、食い方が遅いと文句を言われ、半分にされた。
私は、センターへ来て、女というものを強く感じた。女である悲しみを知らされた。私だけではない。生理どき、いつも言われるのは、何でこんな体なのに生理があるんだろう、世話が焼けることを持ってきて余計手が掛かる、取ってしまえばいいんだよ、本人もそういう気持ちにならないのかしら、そうしたら本人だって気が楽だし、こっちだって。障害者の女性に生理があるのが不思議に思われた。
私も一時悩んで、毎月のことだし、言われるのがつらくて、いっそのこと取ってしまおうと思ったこともあった。しかし、取ったという女性は、聞くところによると後悔しているという。
日記は以上です。
よく、この実態をお話しすると、昔の話でしょうと皆さん言います。では、なぜやまゆり園の事件が起きたのですか。なぜ同じ社会にいられないのですか。考えてください。
そして、一年九か月の都庁前の座込みを経て、私は施設ではなく地域に飛び出して、脱施設を実現していきました。五十年前の地域は、障害者が受け入れられる制度も、バリアフリーも、人々の気持ちも何もなかったのです。だから、必死で闘いました。座込みも辞さなかった。そうやって、一つ一つの制度をつくり、町を住みやすく変え、人々の心も変えていきました。障害者が生きられる社会へと。私の兄、新田勲を中心に、地域で生きられる制度づくりをしていったのが、現在私が委員長を務める全国公的介護保障要求者組合でした。一九七四年当時から長きにわたりこのような動きをしている団体は、ほかにはありませんでした。
私たち要求者組合が都や国と一緒につくったり、変えていった制度はたくさんあります。一九七四年、重度脳性麻痺者介護人派遣事業、在宅の介護保障がない中で何とか障害者が介護者を入れて生活ができるようにと話し合い、東京都と組合がつくった制度です。この制度は、現在の重度訪問介護という国の制度になりました。
そして、重度訪問介護をつくったのが当事者である私たちでした。重度訪問介護は、ほかの制度と全く異なります。まず、介護保険に存在しないのは見守りです。障害者の見守りとは、一瞬でも目を離せない障害者にとって必要不可欠なものです。そして、外出の制限がない、季節の料理も一緒に作れる、大掃除もできる、犬の散歩にも一緒に行けます。
試験を受けて資格を取る必要はありません。資格なんて取っても全く意味がない。障害者は一人一人障害が違うのだから介護も違う。だから資格を取って学んでも介護ができるようにはなりません。介護保険と一緒にされたらたまったもんじゃないんです。
私たち要求者組合は、障害者が当たり前に生きられる制度を死に物狂いでつくり、今でも闘い続けています。重度訪問介護は、重度の障害者が地域で生きるためにつくられた制度ということを覚えておいてください。そして、重度訪問介護が障害当事者にとって地域で当たり前に人間らしく生きられる制度としっかり理解し、間違った運用がなされないように守っていってください。
これで終わります。
247
西田昌司(自民)
速記を止めてください。
〔速記中止〕
この発言のページ
248
西田昌司(自民)
速記を起こしてください。
この発言のページ
249木木村英子(れいわ)
れいわ新選組の木村英子です。
本日は、介護の必要な障害者が地域で生きるためにつくられた重度訪問介護について質問します。そして、この制度をつくってこられた三井絹子さんを参考人としてお呼びし、その経過と現状についてお話ししていただきたいと思います。あわせて、資料一と二も御参照ください。
それでは、三井参考人、お願いいたします。
この発言のページ
- (上の発言)
250三三井絹子NPO法人ワンステップかたつむり国立理事長/全国公的介護保障要求者組合委員長
皆様、こんにちは。三井絹子です。
私はこの文字盤を使って話をします。今日は時間がないので、書いてきた文章を介護者に読んでもらいます。それでは始めます。
今日は、皆様の前でお話しできること、大変にうれしいです。
皆さん、見てください。私は今、介護者に頭を支えられています。なぜか。理由は、生まれてこの方、首が据わったことがないんです。頭を支えられなければ息ができない、すなわち生きていられないんです。
一九四五年五月、疎開先の埼玉で生まれました。母親の強い愛情と、私にも生きる権利があるんだという母の教えのおかげで、現在の私が存在していると思います。
私が二十歳になる前の出来事です。毎晩のように夜遅くまで母親と長男の言い争いの声が響き渡りました。長男が結婚することになり、私と、同じ障害を持つ兄を施設に入れてくれと懇願していたのです。母は、長きにわたる話合いの後に、一家心中するくらいならと施設行きを決め、私たちは入所させられました。
一生いられる施設だと言われた最初の施設から追い出され、次に入れられた施設は、当時東洋一だと言われた都立府中療育センターでした。病院管理のこのセンターでは、私たち障害者はモルモットとして扱われ、人権なんて存在しませんでした。
私は、悔しいにつけ悲しいにつけ、それを日記に書いた。言わば私のはけ口だった。また、それしかはけ口はなかった。
ここで日記を少し紹介します。これは偽りのない全くの事実だということを加えておきます。
六九年九月二十三日。悔しい。本当に悔しい。この世で一番不潔なものをいじるような顔、態度を取る。同じ人間なのに、世話をされる者とする者と、なぜこんなに違うの。手を洗いながら二人は、汚い、嫌ね、全く、どこか行こうか、つらくないところは税金が高いし、安いと思えばこんな変なと話していた。まるっきり金だけが目当てだ。こういう人たちに世話をしてもらっているんだから、私はつらい。つい涙を落としてしまった。
こんなこと、一々母には言えない。知らない、知らなくていいんだ、私さえ我慢すればいいんだから。お昼のときも、食い方が遅いと文句を言われ、半分にされた。
私は、センターへ来て、女というものを強く感じた。女である悲しみを知らされた。私だけではない。生理どき、いつも言われるのは、何でこんな体なのに生理があるんだろう、世話が焼けることを持ってきて余計手が掛かる、取ってしまえばいいんだよ、本人もそういう気持ちにならないのかしら、そうしたら本人だって気が楽だし、こっちだって。障害者の女性に生理があるのが不思議に思われた。
私も一時悩んで、毎月のことだし、言われるのがつらくて、いっそのこと取ってしまおうと思ったこともあった。しかし、取ったという女性は、聞くところによると後悔しているという。
日記は以上です。
よく、この実態をお話しすると、昔の話でしょうと皆さん言います。では、なぜやまゆり園の事件が起きたのですか。なぜ同じ社会にいられないのですか。考えてください。
そして、一年九か月の都庁前の座込みを経て、私は施設ではなく地域に飛び出して、脱施設を実現していきました。五十年前の地域は、障害者が受け入れられる制度も、バリアフリーも、人々の気持ちも何もなかったのです。だから、必死で闘いました。座込みも辞さなかった。そうやって、一つ一つの制度をつくり、町を住みやすく変え、人々の心も変えていきました。障害者が生きられる社会へと。私の兄、新田勲を中心に、地域で生きられる制度づくりをしていったのが、現在私が委員長を務める全国公的介護保障要求者組合でした。一九七四年当時から長きにわたりこのような動きをしている団体は、ほかにはありませんでした。
私たち要求者組合が都や国と一緒につくったり、変えていった制度はたくさんあります。一九七四年、重度脳性麻痺者介護人派遣事業、在宅の介護保障がない中で何とか障害者が介護者を入れて生活ができるようにと話し合い、東京都と組合がつくった制度です。この制度は、現在の重度訪問介護という国の制度になりました。
そして、重度訪問介護をつくったのが当事者である私たちでした。重度訪問介護は、ほかの制度と全く異なります。まず、介護保険に存在しないのは見守りです。障害者の見守りとは、一瞬でも目を離せない障害者にとって必要不可欠なものです。そして、外出の制限がない、季節の料理も一緒に作れる、大掃除もできる、犬の散歩にも一緒に行けます。
試験を受けて資格を取る必要はありません。資格なんて取っても全く意味がない。障害者は一人一人障害が違うのだから介護も違う。だから資格を取って学んでも介護ができるようにはなりません。介護保険と一緒にされたらたまったもんじゃないんです。
私たち要求者組合は、障害者が当たり前に生きられる制度を死に物狂いでつくり、今でも闘い続けています。重度訪問介護は、重度の障害者が地域で生きるためにつくられた制度ということを覚えておいてください。そして、重度訪問介護が障害当事者にとって地域で当たり前に人間らしく生きられる制度としっかり理解し、間違った運用がなされないように守っていってください。
これで終わります。
251木木村英子(れいわ)
三井参考人、ありがとうございます。
三井参考人を始め、障害者たちの運動によって一九七四年に東京都の単独事業としてつくられた重度脳性麻痺者介護人派遣事業が現在の重度訪問介護の基盤となっています。この制度の誕生によって、地域で生活する障害者は、現在一万四千人以上となっています。
しかし、二〇〇〇年の介護保険の施行に伴い、介護福祉士などの資格が義務付けられ、高齢者の介護マニュアルが中心となる中で、障害者に対して不適切な介護により骨折などの事故が起きています。さらに、介護保険の通知を準用して一律に介護内容を制限する自治体や事業所があり、夜間のトイレや体位変換…
この発言のページ
252
上野賢一郎(自民)厚生労働大臣
重度訪問介護を含む障害福祉サービスの利用については、障害者総合支援法上、市町村は、障害者の置かれている環境や障害福祉サービスの利用意向等を勘案して支給の要否の決定を行うとされており、各自治体に対しては、関係通知等において、支給決定に当たって一人一人の事情を踏まえて適切に行うよう示しているところであります。
その上で、重度訪問介護は、介護保険の訪問介護と違い、見守り等を含む比較的長時間にわたる支援を想定しているものであることから、利用者一人一人の障害の状態、その他の心身の状況及び利用意向などを踏まえて適切な運用及び支給量の設定を行うことを示しております。…
この発言のページ
253木木村英子(れいわ)
ありがとうございます。ただ、まだまだ自治体がこの重度訪問介護を知らない自治体もありますので、周知を徹底していただきたいと思います。
次に、重度訪問介護の報酬単価引上げと国庫負担基準について質問します。
現在、介護保険の訪問介護が一時間当たり四千円であるのに対して、重度訪問介護は僅か千八百円台と低く、この著しい格差は深刻な人手不足と事業所の倒産を招いています。そのような現状において、派遣を打ち切られた障害者はショートステイや施設収容を余儀なくされ、地域での生活を断念せざるを得ない状況に追い込まれています。このような事態の背景には財政上の問題があり、国の…
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