国民民主党・無所属クラブの佐々木真琴です。
初めての質疑の機会でございます。どうぞよろしくお願いを申し上げます。
まず、皆様からもありましたけれども、昨日、三月十一日、十五年目の震災命日を迎えました。牧野大臣におかれましては、岩手県の式典に参加いただいたということで、ありがとうございました。
私自身も、岩手県宮古市という三陸海岸のど真ん中にある町で震災を経験をいたしました。当時、中学二年生、十四歳のときでございまして、皆様の多大なる御支援のおかげで今ここに立っていると思っております。先ほど黒田委員の方からもありましたけれども、防災はイメージが大事だという話がありましたので、私からも、当時の話を交えながら御質問をさせていただければと思っております。
先ほど申し上げましたとおり、岩手県の沿岸部、三陸海岸の真ん中に位置する宮古市で津波による大きな被害を受け、当時中学校におりましたけれども、坂の下にはもう津波が来ているようなエリアで幼少期をずっと過ごさせていただいております。避難所にもいましたし、車中泊もしたし、在宅避難もして、リンゴ農家さんのところに水をくみに行くような経験もしております。だからこそ分かる現場の感覚や現場の雰囲気は、今でも私の心の中に強く残っております。
震災からちょっとたった後に、私の父が持ってきてくれたぶかぶかの長靴を履いて、波が引いた後のぐちゃぐちゃの町を歩いたこと、国道四十五号線の四車線ある道路のど真ん中に家があったこと、それをデジカメで写真を撮ったことなども思い出します。そのときはまだ母とも連絡がついておらず、生きているのかも不明だったなとか、そういう様々な気持ちがよみがえります。
だからこそ、私が今この災害対策特別委員会に身を置く一人として、その経験を、決して過去の出来事として終わらせるのではなく、これからよりよい防災の各種計画、体制をつくっていくために全て役立ててまいりたいと考えております。皆様とともに学び続けたいと思っております。
机上の議論だけで終わらない、現場に軸足を置いた防災計画を作る、そのために、被災地で実際に何が起きていたのか、どんな空気があり、どんな課題があったのか、そして今なお何に向かい続けているのか、今日はお話をさせていただきたいと思います。
まず一点目、避難所と子供の居場所について伺ってまいります。
三月十一日、震災直後、学校はすぐには全然再開されませんで、私たちは当時中学生でしたけれども、なかなか居場所がありませんでした。家にいても、大人は子供を守ろうと頑張ってくれるのでなかなか家にも居場所がなくて、避難所に行って遊んでいても、子供は遊ぶのが仕事だと言われながらも、やはり避難所にいると、皆様、おうちをなくされていたり家族を亡くされていたり様々な状況がありますので、うるさいと怒られるような一面もたくさんあったなと思い出します。
そんな中で、なかなか子供たちに役割が与えられるという場面はなかったけれども、やはり大好きな地域のために何かしたいと思っている中学生、高校生はたくさんおりました。
その中で、私は、避難所というものは、物資の確保であったりとかスペースの確保、衛生環境といったところの話が中心になりますけれども、そこだけではなくて、やはり人の生活があり、人の心があり、人との関係がある、そんな場所の中で中学生が何を当時していたかというところを皆さんと共有させていただきたいと思います。
私たちは、学校に集まって、学校が再開するまでの一か月、二か月間の間、避難所の運営をずっとやらせていただいておりました。炊き出しをして、リンゴの皮をむいてラップにくるんで、それを自転車で地域に行って、瓦れき撤去をしているおっちゃんたちにリンゴだったりおにぎりを配って歩くようなこともしたし、避難所に支援物資がたくさん届いてくる中で、それを仕分をして地域の皆さんに配って歩いたり、様々、一か月、二か月、そのようなやり取りをずっと続けてまいりました。
通常の学校生活とは全く違うものでありましたけれども、そこには友人がいて、先生たちもいて、地域の方々もいて、そしてそこに役割があるということが、災害の非常時という中において、私たち中学生の心もたくさん救ってくれたなと思っております。あの経験があったからこそ今の私たちがあるよねという話を今でも同級生の皆さんとする機会があるぐらい、大切な経験だったなと思っております。
そこで伺いますけれども、現在の避難所の運営の方針の中で、子供や若者の居場所そして役割という視点はどのように位置づけられているのか伺います。インフラ整備や物資、スペースの確保と同じぐらい、子供たちの居場所や心のケアという視点は非常に大切だと思っております。防災計画の中にもどのように位置づけられているのか伺いたいと思います。この点について、あかま防災大臣に伺います。
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黒田征樹(維新)
今まだ検討段階というところであると思いますけれども、今後、副首都というような議論も出てきます。その辺の担いをどうしていくのか、全く別物として考えるのか、そこに合わせた考え方もしていくのかというようなところも出てこようかというふうに思いますので、その辺の観点も考えていただければというふうに思います。
そして、これは、形はつくっても、実際に動かしていくことが非常に重要だというふうに思います。特に、省庁を横断したりとか地方の自治体等々との連携も必要だということで、やはり連携の難しさというのは、別々の組織がそれぞれの指揮命令系統がある中で、それぞれの組織にとっ…
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関芳弘(自民)
この際、暫時休憩いたします。
午前十時十二分休憩
――――◇―――――
午前十時四十九分開議
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58
関芳弘(自民)
休憩前に引き続き会議を開きます。
質疑を続行いたします。佐々木真琴君。
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- (上の発言)
59佐佐々木真琴(国民)
国民民主党・無所属クラブの佐々木真琴です。
初めての質疑の機会でございます。どうぞよろしくお願いを申し上げます。
まず、皆様からもありましたけれども、昨日、三月十一日、十五年目の震災命日を迎えました。牧野大臣におかれましては、岩手県の式典に参加いただいたということで、ありがとうございました。
私自身も、岩手県宮古市という三陸海岸のど真ん中にある町で震災を経験をいたしました。当時、中学二年生、十四歳のときでございまして、皆様の多大なる御支援のおかげで今ここに立っていると思っております。先ほど黒田委員の方からもありましたけれども、防災はイメージが大事だという話がありましたので、私からも、当時の話を交えながら御質問をさせていただければと思っております。
先ほど申し上げましたとおり、岩手県の沿岸部、三陸海岸の真ん中に位置する宮古市で津波による大きな被害を受け、当時中学校におりましたけれども、坂の下にはもう津波が来ているようなエリアで幼少期をずっと過ごさせていただいております。避難所にもいましたし、車中泊もしたし、在宅避難もして、リンゴ農家さんのところに水をくみに行くような経験もしております。だからこそ分かる現場の感覚や現場の雰囲気は、今でも私の心の中に強く残っております。
震災からちょっとたった後に、私の父が持ってきてくれたぶかぶかの長靴を履いて、波が引いた後のぐちゃぐちゃの町を歩いたこと、国道四十五号線の四車線ある道路のど真ん中に家があったこと、それをデジカメで写真を撮ったことなども思い出します。そのときはまだ母とも連絡がついておらず、生きているのかも不明だったなとか、そういう様々な気持ちがよみがえります。
だからこそ、私が今この災害対策特別委員会に身を置く一人として、その経験を、決して過去の出来事として終わらせるのではなく、これからよりよい防災の各種計画、体制をつくっていくために全て役立ててまいりたいと考えております。皆様とともに学び続けたいと思っております。
机上の議論だけで終わらない、現場に軸足を置いた防災計画を作る、そのために、被災地で実際に何が起きていたのか、どんな空気があり、どんな課題があったのか、そして今なお何に向かい続けているのか、今日はお話をさせていただきたいと思います。
まず一点目、避難所と子供の居場所について伺ってまいります。
三月十一日、震災直後、学校はすぐには全然再開されませんで、私たちは当時中学生でしたけれども、なかなか居場所がありませんでした。家にいても、大人は子供を守ろうと頑張ってくれるのでなかなか家にも居場所がなくて、避難所に行って遊んでいても、子供は遊ぶのが仕事だと言われながらも、やはり避難所にいると、皆様、おうちをなくされていたり家族を亡くされていたり様々な状況がありますので、うるさいと怒られるような一面もたくさんあったなと思い出します。
そんな中で、なかなか子供たちに役割が与えられるという場面はなかったけれども、やはり大好きな地域のために何かしたいと思っている中学生、高校生はたくさんおりました。
その中で、私は、避難所というものは、物資の確保であったりとかスペースの確保、衛生環境といったところの話が中心になりますけれども、そこだけではなくて、やはり人の生活があり、人の心があり、人との関係がある、そんな場所の中で中学生が何を当時していたかというところを皆さんと共有させていただきたいと思います。
私たちは、学校に集まって、学校が再開するまでの一か月、二か月間の間、避難所の運営をずっとやらせていただいておりました。炊き出しをして、リンゴの皮をむいてラップにくるんで、それを自転車で地域に行って、瓦れき撤去をしているおっちゃんたちにリンゴだったりおにぎりを配って歩くようなこともしたし、避難所に支援物資がたくさん届いてくる中で、それを仕分をして地域の皆さんに配って歩いたり、様々、一か月、二か月、そのようなやり取りをずっと続けてまいりました。
通常の学校生活とは全く違うものでありましたけれども、そこには友人がいて、先生たちもいて、地域の方々もいて、そしてそこに役割があるということが、災害の非常時という中において、私たち中学生の心もたくさん救ってくれたなと思っております。あの経験があったからこそ今の私たちがあるよねという話を今でも同級生の皆さんとする機会があるぐらい、大切な経験だったなと思っております。
そこで伺いますけれども、現在の避難所の運営の方針の中で、子供や若者の居場所そして役割という視点はどのように位置づけられているのか伺います。インフラ整備や物資、スペースの確保と同じぐらい、子供たちの居場所や心のケアという視点は非常に大切だと思っております。防災計画の中にもどのように位置づけられているのか伺いたいと思います。この点について、あかま防災大臣に伺います。
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あかま二郎(自民)国家公安委員会委員長・内閣府特命担当大臣(防災・海洋政策)
お答えいたします。
今委員御指摘のとおり、避難所における物資であるとかそういったものを含むハード面のみならずソフト面、また、ソフト面における児童生徒、子供たち、のみならず御高齢の方、また障害をお持ちの方、様々な方々がという部分だというふうに思っております。
その中にあって、子供の居場所について計画ではどう位置づけられているかというお話でございますけれども、避難所の運営については、避難所に関する指針であるとかガイドラインにおいて、避難者の代表であるとか施設の管理者等を中心に実施することというふうに記載をしており、もちろん、その中には、子供への配慮として…
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61佐佐々木真琴(国民)
ありがとうございます。
まさに学校の先生たちであるとか役所の皆さんであるとかが様々な配慮をしてくれたんだろうなと、当時子供でしたので詳しいことは分からなかったんですけれども、そのような配慮の中で私たちの活動が成り立っていたんだろうと思っております。今後についても、是非現場とともに歩んでいきたいなと思っております。
では、続いて、学校の再開について視点を移してまいりたいと思います。
避難所という非日常的な空間から徐々に元の学校へと変わっていくわけですけれども、私の当時の経験では、バスケコート二面ある体育館の中で、徐々に災害公営住宅に移られたりとか親戚…
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あかま二郎(自民)国家公安委員会委員長・内閣府特命担当大臣(防災・海洋政策)
発災の後、いわゆる学校の再開は、先ほどの委員の御質問の中にありました、いわゆる居場所という意味でも、また教育の機会という意味でも、大事な視点だというふうに思っております。とりわけ、教育の機会という部分にあって、例えば、いわゆる受験を控えてなどという子供がいると、更にそういった部分はスムーズな学校の再開というものが求められる、若しくは学習スペースの確保というものが求められるんだろうと思っております。
とはいえ、委員御指摘のとおり、いわゆる災害時の避難所として、公民館であるとか行政庁舎、また学校の体育館、これらが利用されることが多い状況というのも事実でござ…
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