一応、先住民族は自由に帰属を決めたというふうに聞こえるんですけれども、当時の樺太で、樺太千島交換条約の日本語版とそれからロシア語版の正文はあるんですけれども、それを当時の樺太アイヌが読めたあるいは理解できたとは思えないわけですよね。ということは、一方的に、こういうのができたのでこっちへ移れということで、さっきの御説明にありました強制連行あるいは強制移住があったというふうに思います。
今、説明にありましたような樺太アイヌは、北海道のアイヌも強制移住というのは何度も経験しているんですけれども、更に輪をかけて大きな強制移住を経験いたしました。私が理解しているところで四回ございます、先ほどの理解だと三回ぐらいだと思うんですけれども。
一八七五年の状態で、南樺太には先住民族全体は二千三百七十二名という記録が残っています。
千島樺太交換条約で、八百四十一名の樺太アイヌがまず宗谷に強制移住させられます。宗谷というのは同じ樺太の海が見えるということで、そこだったら一定妥協してもいいよというのが樺太アイヌの考えだったというふうに言われています。
ところが、この人たちを農業移民にしたいという開拓使の一方的な強制で、翌七六年には農業移民として石狩川の下流にある対雁というところに再び強制移住をさせられました。
その後は、先ほど政府参考人の方からお話があった、病気がはやって、たくさんの方が亡くなるということがあったんですけれども、一九〇六年、日露戦争の後のポーツマス条約で南樺太が日本領となると、大多数のアイヌが帰還しました。当時の人口は三百六十六名と言われているんですけれども、これは八百名からいかに減ったかという数字なんですけれども、増えなかったんですね。その人たちのうち樺太に帰った方が三百三十九名。ほとんどの方が自分たちの先祖伝来の土地にお帰りになったということになります。
ところが、一九四五年、第二次大戦が終わると、多くの樺太アイヌが北海道にまた移住をしたということがあって、こうした百年の間に四回ぐらい大きな移住を経験した人たちが樺太アイヌということになります。
こうした度重なる強制移住の犠牲者となる中で、二〇〇一年にエンチウ協会という、先ほどエンチウという自称があるというお話をしたんですけれども、そういうものが設立されます。
二〇二三年五月に、北海道アイヌ協会と日本政府とともに、エンチウ協会の代表がオーストラリアを訪問いたしました。何のためだったか御存じでしょうか。政府参考人、アイヌ総合政策室の方にお伺いします。
122松松浦克巳内閣官房アイヌ総合政策室長
お答えいたします。
樺太アイヌについての御質問ですけれども、こちらにつきましては、平成二十一年七月のアイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会報告書というのがございます。
これは当時の内閣官房長官の要請を受けて作成されたものでございますけれども、その中におきまして、明治八年の樺太千島交換条約の締結後、樺太に住んでいた樺太アイヌ及び占守島など北千島に住んでいた千島アイヌの人々は、北海道本島や色丹島に移住を余儀なくされた。そして、農業の奨励を主とする保護政策が行われたが、急激な生活の変化や疫病の流行などで多くの人々が亡くなった。その後、樺太アイヌの人々は、日…
この発言のページ
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上村英明(れいわ)
基本的な御認識をいただきまして、ありがとうございます。
さて、今お話が出ました一八七五年には、日本とロシアの関係で千島樺太交換条約が結ばれています。これはどんな条約で、今、樺太アイヌのことも話があったんですけれども、条約の内容的にどういう影響を樺太アイヌの方々に及ぼしたのかということを、外務省の方、御説明いただけますか。
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124田田口精一郎外務省大臣官房参事官
御答弁申し上げます。
御指摘の一八七五年の樺太千島交換条約は、我が国が千島列島をロシアから譲り受ける代わりに、ロシアに対して樺太全島を譲り渡すことを規定しているわけでございますけれども、お尋ねの点につきましては、同条約の付録第四条におきまして、樺太及び千島の先住民は同付録が通知された日から三年間の間に日本又はロシアのいずれかの領土に居住することを決め、それに応じた国籍を得るという趣旨を規定しているというふうに認識しております。
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- (上の発言)
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上村英明(れいわ)
一応、先住民族は自由に帰属を決めたというふうに聞こえるんですけれども、当時の樺太で、樺太千島交換条約の日本語版とそれからロシア語版の正文はあるんですけれども、それを当時の樺太アイヌが読めたあるいは理解できたとは思えないわけですよね。ということは、一方的に、こういうのができたのでこっちへ移れということで、さっきの御説明にありました強制連行あるいは強制移住があったというふうに思います。
今、説明にありましたような樺太アイヌは、北海道のアイヌも強制移住というのは何度も経験しているんですけれども、更に輪をかけて大きな強制移住を経験いたしました。私が理解しているところで四回ございます、先ほどの理解だと三回ぐらいだと思うんですけれども。
一八七五年の状態で、南樺太には先住民族全体は二千三百七十二名という記録が残っています。
千島樺太交換条約で、八百四十一名の樺太アイヌがまず宗谷に強制移住させられます。宗谷というのは同じ樺太の海が見えるということで、そこだったら一定妥協してもいいよというのが樺太アイヌの考えだったというふうに言われています。
ところが、この人たちを農業移民にしたいという開拓使の一方的な強制で、翌七六年には農業移民として石狩川の下流にある対雁というところに再び強制移住をさせられました。
その後は、先ほど政府参考人の方からお話があった、病気がはやって、たくさんの方が亡くなるということがあったんですけれども、一九〇六年、日露戦争の後のポーツマス条約で南樺太が日本領となると、大多数のアイヌが帰還しました。当時の人口は三百六十六名と言われているんですけれども、これは八百名からいかに減ったかという数字なんですけれども、増えなかったんですね。その人たちのうち樺太に帰った方が三百三十九名。ほとんどの方が自分たちの先祖伝来の土地にお帰りになったということになります。
ところが、一九四五年、第二次大戦が終わると、多くの樺太アイヌが北海道にまた移住をしたということがあって、こうした百年の間に四回ぐらい大きな移住を経験した人たちが樺太アイヌということになります。
こうした度重なる強制移住の犠牲者となる中で、二〇〇一年にエンチウ協会という、先ほどエンチウという自称があるというお話をしたんですけれども、そういうものが設立されます。
二〇二三年五月に、北海道アイヌ協会と日本政府とともに、エンチウ協会の代表がオーストラリアを訪問いたしました。何のためだったか御存じでしょうか。政府参考人、アイヌ総合政策室の方にお伺いします。
126松松浦克巳内閣官房アイヌ総合政策室長
オーストラリアに存在したアイヌの御遺骨を、返還を受けるために行かれたというふうに認識しております。
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上村英明(れいわ)
ありがとうございます。
実は最近、四月三十日にも英国のエディンバラ大学からアイヌ遺骨三体が返還されたことはニュースで御存じの方もいらっしゃると思うんですけれども。この二〇二三年五月には、オーストラリアのビクトリア博物館から四体のアイヌ遺骨が日本に返還されたんですが、そのうち一体は樺太アイヌの遺骨だったんです。
この返還式の参加のために、エンチウ協会は二〇二三年二月に、文科省から樺太にゆかりのある団体として認められました。しかし、日本では遺骨を管理する認定団体とは認められていないため、遺骨は、現在、国の機関である北海道大学で保管されています。
これは…
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128松松浦重和文部科学省大臣官房審議官
お答えいたします。
まず、樺太由来のアイヌの御遺骨の返還につきましては、国が定めたガイドラインに基づきまして、大学が保管していた御遺骨のうち、慰霊施設への集約前に返還申請がなされた御遺骨につきましては、現在、文部科学省が設置する第三者委員会において要件等の確認を行っているところです。
御指摘のありますエンチウ遺族会の方々とはこれまでも意見交換をさせていただいておりますが、個別の意見交換の内容については申し上げることは差し控えさせていただきます。
いずれにいたしましても、文部科学省といたしましては、引き続きアイヌの方々による尊厳ある慰霊の実現のために…
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