ただいま、院議をもちまして在職二十五年の永年在職議員として表彰を賜りましたこと、大変光栄に存じ、心から御礼を申し上げます。
また、水岡俊一会長より丁重な御祝辞をいただきまして、誠にありがとうございました。心から厚く御礼を申し上げます。そして、共に二十五年を迎えます宮沢洋一先生、有村治子先生、小池晃先生、誠におめでとうございます。これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。
さて、私が政治というものを身近に感じてきましたのは、福岡県議会議員として、生まれ故郷の築上郡、福岡県築上郡において地域の発展に尽力をし、また、県の農政連委員長を長年務め、農業政策に大変力を入れていた父松山譲の後ろ姿でありました。
十四年前に父は他界をいたしましたけれども、高度経済成長期が終わりまして、我が国が大きな変化に揺れ動いていたときに県議会議員となった父は、時間があればこの農村部を、いつも地域の声に寄り添いながら、また様々な要望に応えながら、時には難しい局面にも悩まされておりました。
しかし、温厚で、家の中でも愚痴一つ言わずに、私が申し上げるのは恐縮でありますが、何よりも思いやりの心を持って、休む間もなく、常に多くの郷里の方々に触れ合い政治に取り組んでいる、そんな父を長年見てまいりました。そして、そういう父の信念は、無言のうちに私の心の中に浸透し、刻み込まれていたように思います。
その後、私が二十七歳のときに、ある方の紹介で福岡市をエリアとする福岡青年会議所に入会することになりまして、それから十三年間、中小企業の経営に携わる傍ら、合間を縫って地域の子供たちの育成事業や町づくり運動に邁進してまいりました。
一九九五年には、全国の青年会議所で構成されるこの日本青年会議所の国際協力活動を担う国境なき奉仕団という特別委員会の責任者を拝命しました。
その前年の十二月には、当時、アフリカで民族間の争いによって大虐殺が行われましたルワンダ難民の救援活動を実施すべく、UNHCRなどと連携して既に現地の調査も終えていたところ、年明け一月十七日に阪神・淡路大震災が発生いたしました。急遽、私は日本青年会議所の会頭から現地の責任者を命ぜられまして、最初は寝袋を持って被災地に入りまして、約二か月間にわたって、全国から毎日駆け付けてくれる数百人もの多くの仲間とともに、瓦れきの除去や膨大な救援物資の仕分、あるいは避難所への配送など、行政の手が行き届かないところを必死の思いで取り組んでまいりました。
実はこのとき、この日本青年会議所のトップであります会頭の一人息子であった最愛の御子息がこの震災で亡くなられていたのであります。悲しみのどん底にいながらも、涙をこらえ、作業服を着て、我々とともに復旧活動に取り組んでくれたそのリーダーの後ろ姿に私は奮い立たされました。そして、まさにその姿に背中を押され、翌年には福岡青年会議所の理事長を務め、その三年後に日本青年会議所の会頭を務めることになりました。まさにこの一九九五年の経験と出会いは、そこまで自分が頑張ってこれた大きな転機でもありました。
そして、日本JCの会頭として、当時の小渕総理や閣僚の方々と地域の活性化や地方分権、教育問題や国際交流など様々な分野で意見を交わす機会をいただき、政府主導の会議などにも参加をさせていただきました。こうした活動を目の当たりにして、日本の平和と繁栄に向けて様々な分野でこの国を動かしている政治の重要性、重さというものを改めて痛感し、政治への関心もこれまで以上に高まってまいりました。
そして、二年後の二〇〇一年の参議院議員選挙。これまで培った様々な経験を生かして、この国の政治で世の中のために、この国のために、世代としての責任と使命というテーマを生意気にも掲げまして、とことん頑張ってみたいと、そういう強い思いで立候補の決意をいたしました。
当時の森総裁から我が党の公認をいただきましたけれども、保守分裂の厳しい戦いになりました。しかし、同郷の麻生太郎先生や古賀誠先生を始め、先輩方の力強い御支援をいただきまして、また、父の同僚、後輩県議の方々にも助けられ、当選を果たすことができました。
初当選して最初の委員会は、父が力を入れていました国の基である農業政策を所管する農林水産委員会に所属をし、私の政治活動がスタートいたしました。
政府におきましては、経済産業大臣政務官、外務副大臣、そして安倍総理の重点政策でありました一億総活躍担当大臣並びに科学技術や宇宙政策のほか、特に力を入れてきた少子化対策担当大臣として活動させていただきました。
また、先輩方には、国対や幹事長室、また議運におきまして、難しい国会運営というものを御指導いただいてまいりました。同期の先生方にも大変恵まれました。議長の関口昌一先生始め、伊達忠一先生や、今は亡き吉田博美元幹事長にも、弟のように大変温かい御指導をいただいてまいりました。今日まで多くの御教示をいただきました衆参両院の諸先輩並びに同僚諸氏に、この場をお借りして心からの感謝と御礼を申し上げます。
今後も、党の議員会長として大切にしていきたい融和と結束、これを重んじて、日本列島を強く豊かにするために全力で頑張らせていただきたいと決意を新たにいたしております。引き続き、先生方には何とぞ御指導賜りますようよろしくお願いを申し上げます。
結びに当たりまして、今日まで御支援いただいてまいりました地元後援会、支援者の皆様方、事務所のスタッフ、党の職員の皆さん、私を育ててくれた亡き父、今月九十三歳を迎えた母、そして、最も身近で、今日まで苦楽を共にし、温かく支え続けてくれた親愛なる妻と四人の子供たちを始め、子供、家族、親族に心から感謝の誠をささげたいと思います。
本日は誠にありがとうございました。(拍手)
5
関口昌一議長
宮沢洋一君、松山政司君、小池晃君及び有村治子君から、それぞれ発言を求められました。順次発言を許します。宮沢洋一君。
〔宮沢洋一君登壇、拍手〕
この発言のページ
6宮宮沢洋一(自民)
ただいま、院議をもちまして在職二十五年の永年在職表彰を賜り、誠に光栄に存じます。ありがとうございました。
また、関口議長、さらに、御祝辞をいただきました水岡俊一先生、ありがとうございました。そして、同時に表彰されます松山政司先生、小池晃先生、有村治子先生、おめでとうございました。
思い返してみますと、私が政治の道に、政治の世界に入るきっかけとなったのは、一九九一年秋、私が駐在していたニューヨークに掛かってきた一本の電話でした。早朝に鳴るベルの音、何か不幸でも起こったのかと不安を感じながら取った電話の声は、伯父の宮澤喜一でした。もうすぐ総理大臣になりそ…
この発言のページ
7
関口昌一議長
松山政司君。
〔松山政司君登壇、拍手〕
この発言のページ
- (上の発言)
8
松山政司(自民)
ただいま、院議をもちまして在職二十五年の永年在職議員として表彰を賜りましたこと、大変光栄に存じ、心から御礼を申し上げます。
また、水岡俊一会長より丁重な御祝辞をいただきまして、誠にありがとうございました。心から厚く御礼を申し上げます。そして、共に二十五年を迎えます宮沢洋一先生、有村治子先生、小池晃先生、誠におめでとうございます。これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。
さて、私が政治というものを身近に感じてきましたのは、福岡県議会議員として、生まれ故郷の築上郡、福岡県築上郡において地域の発展に尽力をし、また、県の農政連委員長を長年務め、農業政策に大変力を入れていた父松山譲の後ろ姿でありました。
十四年前に父は他界をいたしましたけれども、高度経済成長期が終わりまして、我が国が大きな変化に揺れ動いていたときに県議会議員となった父は、時間があればこの農村部を、いつも地域の声に寄り添いながら、また様々な要望に応えながら、時には難しい局面にも悩まされておりました。
しかし、温厚で、家の中でも愚痴一つ言わずに、私が申し上げるのは恐縮でありますが、何よりも思いやりの心を持って、休む間もなく、常に多くの郷里の方々に触れ合い政治に取り組んでいる、そんな父を長年見てまいりました。そして、そういう父の信念は、無言のうちに私の心の中に浸透し、刻み込まれていたように思います。
その後、私が二十七歳のときに、ある方の紹介で福岡市をエリアとする福岡青年会議所に入会することになりまして、それから十三年間、中小企業の経営に携わる傍ら、合間を縫って地域の子供たちの育成事業や町づくり運動に邁進してまいりました。
一九九五年には、全国の青年会議所で構成されるこの日本青年会議所の国際協力活動を担う国境なき奉仕団という特別委員会の責任者を拝命しました。
その前年の十二月には、当時、アフリカで民族間の争いによって大虐殺が行われましたルワンダ難民の救援活動を実施すべく、UNHCRなどと連携して既に現地の調査も終えていたところ、年明け一月十七日に阪神・淡路大震災が発生いたしました。急遽、私は日本青年会議所の会頭から現地の責任者を命ぜられまして、最初は寝袋を持って被災地に入りまして、約二か月間にわたって、全国から毎日駆け付けてくれる数百人もの多くの仲間とともに、瓦れきの除去や膨大な救援物資の仕分、あるいは避難所への配送など、行政の手が行き届かないところを必死の思いで取り組んでまいりました。
実はこのとき、この日本青年会議所のトップであります会頭の一人息子であった最愛の御子息がこの震災で亡くなられていたのであります。悲しみのどん底にいながらも、涙をこらえ、作業服を着て、我々とともに復旧活動に取り組んでくれたそのリーダーの後ろ姿に私は奮い立たされました。そして、まさにその姿に背中を押され、翌年には福岡青年会議所の理事長を務め、その三年後に日本青年会議所の会頭を務めることになりました。まさにこの一九九五年の経験と出会いは、そこまで自分が頑張ってこれた大きな転機でもありました。
そして、日本JCの会頭として、当時の小渕総理や閣僚の方々と地域の活性化や地方分権、教育問題や国際交流など様々な分野で意見を交わす機会をいただき、政府主導の会議などにも参加をさせていただきました。こうした活動を目の当たりにして、日本の平和と繁栄に向けて様々な分野でこの国を動かしている政治の重要性、重さというものを改めて痛感し、政治への関心もこれまで以上に高まってまいりました。
そして、二年後の二〇〇一年の参議院議員選挙。これまで培った様々な経験を生かして、この国の政治で世の中のために、この国のために、世代としての責任と使命というテーマを生意気にも掲げまして、とことん頑張ってみたいと、そういう強い思いで立候補の決意をいたしました。
当時の森総裁から我が党の公認をいただきましたけれども、保守分裂の厳しい戦いになりました。しかし、同郷の麻生太郎先生や古賀誠先生を始め、先輩方の力強い御支援をいただきまして、また、父の同僚、後輩県議の方々にも助けられ、当選を果たすことができました。
初当選して最初の委員会は、父が力を入れていました国の基である農業政策を所管する農林水産委員会に所属をし、私の政治活動がスタートいたしました。
政府におきましては、経済産業大臣政務官、外務副大臣、そして安倍総理の重点政策でありました一億総活躍担当大臣並びに科学技術や宇宙政策のほか、特に力を入れてきた少子化対策担当大臣として活動させていただきました。
また、先輩方には、国対や幹事長室、また議運におきまして、難しい国会運営というものを御指導いただいてまいりました。同期の先生方にも大変恵まれました。議長の関口昌一先生始め、伊達忠一先生や、今は亡き吉田博美元幹事長にも、弟のように大変温かい御指導をいただいてまいりました。今日まで多くの御教示をいただきました衆参両院の諸先輩並びに同僚諸氏に、この場をお借りして心からの感謝と御礼を申し上げます。
今後も、党の議員会長として大切にしていきたい融和と結束、これを重んじて、日本列島を強く豊かにするために全力で頑張らせていただきたいと決意を新たにいたしております。引き続き、先生方には何とぞ御指導賜りますようよろしくお願いを申し上げます。
結びに当たりまして、今日まで御支援いただいてまいりました地元後援会、支援者の皆様方、事務所のスタッフ、党の職員の皆さん、私を育ててくれた亡き父、今月九十三歳を迎えた母、そして、最も身近で、今日まで苦楽を共にし、温かく支え続けてくれた親愛なる妻と四人の子供たちを始め、子供、家族、親族に心から感謝の誠をささげたいと思います。
本日は誠にありがとうございました。(拍手)
9
関口昌一議長
小池晃君。
〔小池晃君登壇、拍手〕
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10
小池晃(共産)
日本共産党の小池晃です。
お許しをいただきまして、一言お礼を申し上げます。
ただいま、院議をもって在職二十五年表彰を受けました。この議決をしていただいた議員各位の皆様、さらに、水岡俊一立憲民主党議員会長より温かい御祝辞をいただきました。心からお礼を申し上げます。同時に表彰された宮沢洋一、松山政司、有村治子議員にもお祝いを申し上げます。
特に、日本共産党への御支援をいただき、私を国会に送り出してくださった国民の皆様に深い感謝を申し上げます。そして、私の二十五年の国会活動を支えてくれた秘書を始めとする日本共産党国会議員団事務局や党本部職員の皆さんと家族…
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11
関口昌一議長
有村治子君。
〔有村治子君登壇、拍手〕
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