かしこまりました。
本日は意見を申し述べる機会を与えていただきまして、大変ありがとうございます。光栄に、大変光栄に存じます。
早速、それでは本題に入りたいと思います。
国旗損壊等の処罰に関する法律案、ここでは本法律案と呼びたいと思います。これは、次の二つの点で非常に異常な法律案であります。第一に、本法律案は、国家や政府に対する批判、これを禁止するものであるという点。第二に、明確な立法事実、立法事実というのはるる出てまいりましたけれども、法律を作る際の必要性や合理性、これがないにもかかわらず、法律が制定されようとしている点であります。
本法律案は、日本国憲法の下で培われてきました曲がりなりにも自由な社会、これを戦後と呼んでもいいのかと思いますけれども、これを葬ろうとする点で、日本社会を大きく変質させようとすることを意味します。
以下、憲法三十一条と二十一条一項の観点から、意見を申し上げたいと思います。
第一。本法律案は、刑罰法規に必要な条件を欠いているという点。
法学部に入学いたしますと、比較的早い段階で罪刑法定主義という考え方を教わります。これは、何が犯罪か、それに対していかなる刑罰が科されるか、これが前もって法律で明確に定められていなければ罪に問うことができないという原則であります。近代の法の支配の基礎でもあり、常識とも言える考え方です。本法律案は、この罪刑法定主義と真っ向から対立します。
具体的に見てみましょう。
本法律案の第二条一項には、処罰の対象となる行為が次のように定められています。人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法により、公然と国旗を損壊し、除去し、又は汚損した者は、二年以下の拘禁刑又は二十万円以下の罰金に処する。そして、二項では、この方法に該当するかどうかを行為の外形、周囲の状況その他客観的な事情を総合的に勘案して行うものとすると定められています。
罪刑法定主義は、日本国憲法三十一条によって保障されているというのがほぼ通説的な解釈だというふうに言っていいだろうと思います。何が犯罪なのかが前もって明確に定められていなければ、刑罰はおのずと後出しじゃんけんになります。本法律案は、何がこの方法に該当するかを行為が行われた後に判断することにしています。やってみなければ分からないという刑罰法規は、私は残念ながらほかに見たことがありません。
そもそも、人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるとは、誰が何を基にして判断するのでしょうか。二項では、行為の外形、周囲の状況その他客観的な事情を総合的に勘案するとしていますが、ということは、判断者次第でこの認定は変わるということも意味しています。
これに対しては、そもそも国旗を焼かなければいいのだという意見もあるでしょう。しかし、それは罪刑法定主義の問題とは全く関係がありません。刑罰法規とするに堪えるかどうかこそが問題なのです。予測可能性も客観性もない刑罰法規は、恐らく日本の法制史上存在しなかったと思います。
二番目。構成要件のちぐはぐさについて申し上げます。
法律案は、人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法により、公然と国旗を損壊し、除去し、又は汚損した者を処罰対象としているようです。では、損壊、除去、汚損とは具体的にどのような行為を指すのでしょうか。この文言は、外国国旗損壊罪に倣ったものでありますが、外国の国旗を損壊する場面と自国の国旗を損壊する場面は同じではないはずです。
これらについても、ほとんど全くと言っていいと思いますけれども、議論が詰められている形跡はありません。余りに安易です。だからこそ、本法律案は、ふわっとした、実にふわっとした刑罰法規にとどまっているわけです。
さらに、人に著しく不快又は嫌悪の情を催させる方法とはどういうものを指すのでしょうか。著しく不快、嫌悪を感じる、この人は一体誰なんでしょうか。感じ方や感覚だけで人を処罰する、こういった怖さは、人々に表現を萎縮させ、結果的に憲法二十一条二項が禁止する検閲に近い効果を持つと言わざるを得ません。
一例を挙げましょう。公衆の面前で、一言も発することなく、自分が作った国旗にライターで火を付ける行為は、人に著しく不快又は嫌悪の情を催させる方法に該当するんでしょうか。どうなんでしょうか。これを不快に思う人もいるでしょう。むしろ逆に、シンパシーを感じるという人もいるはずです。こういうふうに極めて主観性の強い要素を構成要件に組み込むこと自体に相当な無理があるということを理解すべきではないでしょうか。
繰り返しになりますが、このような法律案は、近代国家のイロハのイとも言える罪刑法定主義を全く満たしていない、極めて珍しい法律なんです。これでは処罰の根拠にはなりません。後出しじゃんけん的な解釈による適用を許すような刑罰法規は、法の支配の全面的な否定を意味します。むしろ、恣意的に、自在に運用できる法律を作りたかったのかもしれないという邪念、邪推さえ生まれます。
さて、刑罰法規の明確性について、徳島市公安条例事件最高裁大法廷判決は次のように述べています。
ある刑罰法規が曖昧不明確のゆえに憲法三十一条に違反するものと認めるべきかどうかは、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場面に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読み取れるかどうかによってこれを決定すべきである。
本法律案は、この法理にも反します。条文自体からは、何が対象となるのか読み取れないのです。具体的な判断は全て後回しにしています。やってみなければ分からないのです。後出しじゃんけんの典型です。
結果として、一切の国旗損壊行為を処罰するとすれば、構成要件は明確になるでしょう。しかし、それでは表現の自由に対する過度な制約となって、憲法に違反する。そこで、人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法に限定して制約することにした。しかし、そうすることで逆に構成要件が曖昧になり、同じく憲法違反となる。これほどまでに無理のある法律を今ここで作らなければならない理由は、私には理解できません。
本法律案、ちょっとタイプミスがございますけれども、表現の自由を侵害するという、表現の自由についての論点について触れていきたいと思います。
まず、国旗を傷つける行為はどういう行為でしょうか。そもそも国旗とはどういうようなものなのでしょうか。国家そのものを見たり、触れたり、感知する、この感知というのは、済みません、感じるという方ですね、できません。なぜかといいますと、国家は観念の創造物だからです。それゆえに、国家を実際に感知できるようにするため、旗が作られ、歌が歌われます。国旗は、国家を可視化するために用いられるまさしくシンボルです。国旗や国歌は、国民を統合し、アイデンティティーをつくり出し、国民意識を醸成します。
では、国旗を損壊する行為とはどういう行為でしょうか。それは、国旗がシンボルであるがゆえに、国家に対する最も強烈な批判になります。長い歴史の中で、人々は、国家の抑圧に抗議し、植民地政策を排撃し、少数者への差別を糾弾するため、国旗を損壊してきました。国旗損壊行為は、国旗が国家を表象しているがゆえに、国家への最も強力な抗議のメッセージになります。よく考えてみましょう。政府を礼賛し、国家をたたえるために、人は国旗を損壊しません。
したがって、国旗損壊行為を処罰することは、国家や政府に対する最も強力な批判、これを禁止することを意味します。法律案の条文をどのように工夫しようとも、その本質において、国旗損壊罪は特定のメッセージ、それも最も強力な政府批判を処罰することになる点を忘れてはならないと思います。日本国憲法の歴史上初めて、あからさまに政府批判を禁止する法律ができようとしていることに、私たちは目を向けなければならないと思います。
三番目でございますが、これは木下先生も同じようなことを指摘されておりました。
本法律案を表現の方法を規制するにすぎないと言う人がいます。しかし、それは間違いです。国旗を損壊する行為自体に強烈なメッセージが込められている以上、表現の方法を規制するという外形に惑わされてはなりません。これは、例えば音量を下げてくれとかこの場所でやらないでくれという規制ではないのです。
かつて、合衆国最高裁判所は、星条旗損壊行為を処罰する法律を二度にわたり違憲であると判断いたしました。合衆国最高裁判所は、星条旗を焼く行為はメッセージを伝達する行為であり、これら法律は、処罰される行為の情報伝達の要素、これを理由とする規制である以上、最も厳格な審査に服すると判示いたしました。国旗を損壊する行為が表現行為であるということは、たとえその対象が日章旗であろうと星条旗であろうと変わりません。国旗損壊行為の処罰は、表現内容を理由とする処罰なのです。
また、構成要件の曖昧さから運用が恣意的にならざるを得ず、特定の団体の特定の見解だけを狙い撃ちにできる点も指摘しておきたいと思います。
本法律案は、要綱によりますと、国旗を大切に思う国民感情を保護法益に設定しているようです。しかし、これまで国民感情そのものを保護法益にして表現規制を正当化した例はありません。わいせつ物頒布等にしても、人類の長い歴史の中で形成されてきた善良な風俗、もっともろもろに法益ありますけれども、こういったものを保護するものであって、単に感情を理由にして表現を規制しようとするものでは決してありません。また、国旗を大切に思う国民感情を守るため、ここまで重い刑罰は必要なのでしょうか。むしろ、今後、政府批判は許さないという意思の表れとも取れます。
表現の自由であっても絶対的な自由ではなく、公共の福祉による制約に服するはずだという意見も確かにあります。しかし、先ほど木下先生からも御紹介あったところと関わりますけれども、今の判例理論は、その公共の福祉の中身、それは制約の目的と制約の方法、比例原則、こんなものを丹念に吟味することによってその制約の合憲性を判断するものであります。立法府において、そのような丹念な検討が行われましたでしょうか。保護法益の実質性や制約の妥当性、比例原則などの議論が丁寧に行われた形跡はないと思います。
最後になりました。
我が国において、国旗が損壊され、大きな社会問題となっている事実を私は知りません。国旗損壊行為を処罰する規定を置いている国はありますが、それぞれの国の立法事実があるからこそ、そのような規定ができているのです。本法律案の立法事実は何でしょうか。立法事実が明確に把握されないからこそ、このような曖昧で不必要な表現規制が提案されているのではないでしょうか。本法律案は刑罰法規の提案ですから、やってみてから考えようは絶対に許されない話です。社会的な必要性もなく、作りたいから作るのだという姿勢は、残念ながら、唯一の立法機関である国会の権威を損ないます。
私は、本法律案は法令違憲であると言わざるを得ないと思います。
以上です。ありがとうございました。
4
北村経夫(自民)
ありがとうございました。
次に、木下参考人にお願いいたします。木下参考人。
この発言のページ
5木木下昌彦神戸大学大学院法学研究科教授
ただいま御紹介いただきました神戸大学の木下昌彦と申します。憲法、比較憲法、情報法などを専門にしております。
本日、このような発言の機会を賜りましたこと、誠にありがとうございます。
本日は、我が国の最高裁判例に即して、とりわけ自己所有の国旗に適用される場面を想定して、本法案の憲法適合性について私の見解を述べさせていただきたいと思います。
まず、最高裁は、憲法判断の方法として、利益衡量論という手法を採用しております。具体的には、制限される自由の内容及び性質、これに加えられる具体的制限の態様及び程度、自由を制限する必要性の程度という三つの要素を衡量し、制…
この発言のページ
6
北村経夫(自民)
ありがとうございました。
次に、橋本参考人にお願いいたします。橋本参考人。
この発言のページ
- (上の発言)
7橋橋本基弘中央大学法学部教授
かしこまりました。
本日は意見を申し述べる機会を与えていただきまして、大変ありがとうございます。光栄に、大変光栄に存じます。
早速、それでは本題に入りたいと思います。
国旗損壊等の処罰に関する法律案、ここでは本法律案と呼びたいと思います。これは、次の二つの点で非常に異常な法律案であります。第一に、本法律案は、国家や政府に対する批判、これを禁止するものであるという点。第二に、明確な立法事実、立法事実というのはるる出てまいりましたけれども、法律を作る際の必要性や合理性、これがないにもかかわらず、法律が制定されようとしている点であります。
本法律案は、日本国憲法の下で培われてきました曲がりなりにも自由な社会、これを戦後と呼んでもいいのかと思いますけれども、これを葬ろうとする点で、日本社会を大きく変質させようとすることを意味します。
以下、憲法三十一条と二十一条一項の観点から、意見を申し上げたいと思います。
第一。本法律案は、刑罰法規に必要な条件を欠いているという点。
法学部に入学いたしますと、比較的早い段階で罪刑法定主義という考え方を教わります。これは、何が犯罪か、それに対していかなる刑罰が科されるか、これが前もって法律で明確に定められていなければ罪に問うことができないという原則であります。近代の法の支配の基礎でもあり、常識とも言える考え方です。本法律案は、この罪刑法定主義と真っ向から対立します。
具体的に見てみましょう。
本法律案の第二条一項には、処罰の対象となる行為が次のように定められています。人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法により、公然と国旗を損壊し、除去し、又は汚損した者は、二年以下の拘禁刑又は二十万円以下の罰金に処する。そして、二項では、この方法に該当するかどうかを行為の外形、周囲の状況その他客観的な事情を総合的に勘案して行うものとすると定められています。
罪刑法定主義は、日本国憲法三十一条によって保障されているというのがほぼ通説的な解釈だというふうに言っていいだろうと思います。何が犯罪なのかが前もって明確に定められていなければ、刑罰はおのずと後出しじゃんけんになります。本法律案は、何がこの方法に該当するかを行為が行われた後に判断することにしています。やってみなければ分からないという刑罰法規は、私は残念ながらほかに見たことがありません。
そもそも、人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるとは、誰が何を基にして判断するのでしょうか。二項では、行為の外形、周囲の状況その他客観的な事情を総合的に勘案するとしていますが、ということは、判断者次第でこの認定は変わるということも意味しています。
これに対しては、そもそも国旗を焼かなければいいのだという意見もあるでしょう。しかし、それは罪刑法定主義の問題とは全く関係がありません。刑罰法規とするに堪えるかどうかこそが問題なのです。予測可能性も客観性もない刑罰法規は、恐らく日本の法制史上存在しなかったと思います。
二番目。構成要件のちぐはぐさについて申し上げます。
法律案は、人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法により、公然と国旗を損壊し、除去し、又は汚損した者を処罰対象としているようです。では、損壊、除去、汚損とは具体的にどのような行為を指すのでしょうか。この文言は、外国国旗損壊罪に倣ったものでありますが、外国の国旗を損壊する場面と自国の国旗を損壊する場面は同じではないはずです。
これらについても、ほとんど全くと言っていいと思いますけれども、議論が詰められている形跡はありません。余りに安易です。だからこそ、本法律案は、ふわっとした、実にふわっとした刑罰法規にとどまっているわけです。
さらに、人に著しく不快又は嫌悪の情を催させる方法とはどういうものを指すのでしょうか。著しく不快、嫌悪を感じる、この人は一体誰なんでしょうか。感じ方や感覚だけで人を処罰する、こういった怖さは、人々に表現を萎縮させ、結果的に憲法二十一条二項が禁止する検閲に近い効果を持つと言わざるを得ません。
一例を挙げましょう。公衆の面前で、一言も発することなく、自分が作った国旗にライターで火を付ける行為は、人に著しく不快又は嫌悪の情を催させる方法に該当するんでしょうか。どうなんでしょうか。これを不快に思う人もいるでしょう。むしろ逆に、シンパシーを感じるという人もいるはずです。こういうふうに極めて主観性の強い要素を構成要件に組み込むこと自体に相当な無理があるということを理解すべきではないでしょうか。
繰り返しになりますが、このような法律案は、近代国家のイロハのイとも言える罪刑法定主義を全く満たしていない、極めて珍しい法律なんです。これでは処罰の根拠にはなりません。後出しじゃんけん的な解釈による適用を許すような刑罰法規は、法の支配の全面的な否定を意味します。むしろ、恣意的に、自在に運用できる法律を作りたかったのかもしれないという邪念、邪推さえ生まれます。
さて、刑罰法規の明確性について、徳島市公安条例事件最高裁大法廷判決は次のように述べています。
ある刑罰法規が曖昧不明確のゆえに憲法三十一条に違反するものと認めるべきかどうかは、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場面に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読み取れるかどうかによってこれを決定すべきである。
本法律案は、この法理にも反します。条文自体からは、何が対象となるのか読み取れないのです。具体的な判断は全て後回しにしています。やってみなければ分からないのです。後出しじゃんけんの典型です。
結果として、一切の国旗損壊行為を処罰するとすれば、構成要件は明確になるでしょう。しかし、それでは表現の自由に対する過度な制約となって、憲法に違反する。そこで、人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法に限定して制約することにした。しかし、そうすることで逆に構成要件が曖昧になり、同じく憲法違反となる。これほどまでに無理のある法律を今ここで作らなければならない理由は、私には理解できません。
本法律案、ちょっとタイプミスがございますけれども、表現の自由を侵害するという、表現の自由についての論点について触れていきたいと思います。
まず、国旗を傷つける行為はどういう行為でしょうか。そもそも国旗とはどういうようなものなのでしょうか。国家そのものを見たり、触れたり、感知する、この感知というのは、済みません、感じるという方ですね、できません。なぜかといいますと、国家は観念の創造物だからです。それゆえに、国家を実際に感知できるようにするため、旗が作られ、歌が歌われます。国旗は、国家を可視化するために用いられるまさしくシンボルです。国旗や国歌は、国民を統合し、アイデンティティーをつくり出し、国民意識を醸成します。
では、国旗を損壊する行為とはどういう行為でしょうか。それは、国旗がシンボルであるがゆえに、国家に対する最も強烈な批判になります。長い歴史の中で、人々は、国家の抑圧に抗議し、植民地政策を排撃し、少数者への差別を糾弾するため、国旗を損壊してきました。国旗損壊行為は、国旗が国家を表象しているがゆえに、国家への最も強力な抗議のメッセージになります。よく考えてみましょう。政府を礼賛し、国家をたたえるために、人は国旗を損壊しません。
したがって、国旗損壊行為を処罰することは、国家や政府に対する最も強力な批判、これを禁止することを意味します。法律案の条文をどのように工夫しようとも、その本質において、国旗損壊罪は特定のメッセージ、それも最も強力な政府批判を処罰することになる点を忘れてはならないと思います。日本国憲法の歴史上初めて、あからさまに政府批判を禁止する法律ができようとしていることに、私たちは目を向けなければならないと思います。
三番目でございますが、これは木下先生も同じようなことを指摘されておりました。
本法律案を表現の方法を規制するにすぎないと言う人がいます。しかし、それは間違いです。国旗を損壊する行為自体に強烈なメッセージが込められている以上、表現の方法を規制するという外形に惑わされてはなりません。これは、例えば音量を下げてくれとかこの場所でやらないでくれという規制ではないのです。
かつて、合衆国最高裁判所は、星条旗損壊行為を処罰する法律を二度にわたり違憲であると判断いたしました。合衆国最高裁判所は、星条旗を焼く行為はメッセージを伝達する行為であり、これら法律は、処罰される行為の情報伝達の要素、これを理由とする規制である以上、最も厳格な審査に服すると判示いたしました。国旗を損壊する行為が表現行為であるということは、たとえその対象が日章旗であろうと星条旗であろうと変わりません。国旗損壊行為の処罰は、表現内容を理由とする処罰なのです。
また、構成要件の曖昧さから運用が恣意的にならざるを得ず、特定の団体の特定の見解だけを狙い撃ちにできる点も指摘しておきたいと思います。
本法律案は、要綱によりますと、国旗を大切に思う国民感情を保護法益に設定しているようです。しかし、これまで国民感情そのものを保護法益にして表現規制を正当化した例はありません。わいせつ物頒布等にしても、人類の長い歴史の中で形成されてきた善良な風俗、もっともろもろに法益ありますけれども、こういったものを保護するものであって、単に感情を理由にして表現を規制しようとするものでは決してありません。また、国旗を大切に思う国民感情を守るため、ここまで重い刑罰は必要なのでしょうか。むしろ、今後、政府批判は許さないという意思の表れとも取れます。
表現の自由であっても絶対的な自由ではなく、公共の福祉による制約に服するはずだという意見も確かにあります。しかし、先ほど木下先生からも御紹介あったところと関わりますけれども、今の判例理論は、その公共の福祉の中身、それは制約の目的と制約の方法、比例原則、こんなものを丹念に吟味することによってその制約の合憲性を判断するものであります。立法府において、そのような丹念な検討が行われましたでしょうか。保護法益の実質性や制約の妥当性、比例原則などの議論が丁寧に行われた形跡はないと思います。
最後になりました。
我が国において、国旗が損壊され、大きな社会問題となっている事実を私は知りません。国旗損壊行為を処罰する規定を置いている国はありますが、それぞれの国の立法事実があるからこそ、そのような規定ができているのです。本法律案の立法事実は何でしょうか。立法事実が明確に把握されないからこそ、このような曖昧で不必要な表現規制が提案されているのではないでしょうか。本法律案は刑罰法規の提案ですから、やってみてから考えようは絶対に許されない話です。社会的な必要性もなく、作りたいから作るのだという姿勢は、残念ながら、唯一の立法機関である国会の権威を損ないます。
私は、本法律案は法令違憲であると言わざるを得ないと思います。
以上です。ありがとうございました。
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北村経夫(自民)
ありがとうございました。
以上で参考人の御意見の陳述は終わりました。
これより参考人に対する質疑を行います。
なお、質疑及び答弁は着席のままで結構でございます。
質疑のある方は順次御発言願います。
この発言のページ
9
寺田静(自民)
こんにちは。自由民主党・無所属の会の寺田静と申します。
まずは、本日は、伊藤参考人、木下参考人、橋本参考人、大変お忙しい中、また蒸し暑い中、本委員会に御出席を賜り、貴重な御意見を賜りましたことに心から御礼を申し上げます。
私自身は、国の象徴であるこの国旗を尊び、この国旗を大切に思う国民感情を守りたいという本法案のこの根本的な理念のところには共感をしておりますけれども、また、ふだんから強い国旗に思い入れがない方であっても、やはり多くの国民は、自分自身の国の国旗が傷つけられた場面を目撃をするならば恐怖や嫌悪感を抱くのではないかというような思いもあります。…
この発言のページ
10伊伊藤俊幸金沢工業大学大学院教授
先ほどの陳述の中で申したとおりですが、例えば過激になるんですね。今回のいろんな事案、この関連する事案は恐らく国民の対立を生むということです。国家を二分させてしまい、正しい法理論でこうあるべきだというのが理解する人はいいでしょうけど、そうじゃない側は、今回もだから過半数の日本国民はこの法案に賛成するわけですね。この分断が、過激なことがあればあるほどこれが深まるわけですよ。
ですから、そこをアメリカのように、今のトランプのように行政権で、行政指導で強制的にやるというのは、これはもう明らかに間違いなんですね。それに対して、まさに今ここで審議されているように、…
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