国民民主党・無所属クラブ、佐々木真琴です。
本日も質問の機会をいただきました。どうぞよろしくお願いを申し上げます。
まず、皆さん触れてもおられますけれども、東日本大震災から十五年を迎えたというところでございます。我々の会の冒頭でも皆さんと一緒に黙祷させていただきましたが、三月十一日、十五回目を迎えました。風化させないという言葉はたくさん聞きますけれども、非常に難しいなと私自身も感じておるところでございます。
岩手県宮古市で震災を経験しまして、私の宿命は、皆さん、一人でも多くの方々にあのときのことを伝えていくことであったりとか、それを教訓にこれからの世界へと生かしていくことが大事だというふうに感じております。
前回お話しさせていただいたとおり、岩手県宮古市で生まれ、十四歳で東日本大震災を経験いたしております。震災は、私にとっても、当たり前というものの価値みたいなものが全て崩れ落ちた瞬間だったなと感じております。
もう少しで二時四十六分を迎えますけれども、私は、その当時、中学校の教室におりました。地震が来たら机の下に潜るという、本当に誰しもが想像できる当たり前すらも行動できないぐらいの大きな地震だったと感じております。その後、校庭に避難しましたけれども、昨日の東京もちらっと雪が降りましたけれども、あのような天気で、とても寒かったことを思い出します。
そして、それと同時に、私は中学二年生でしたけれども、その翌日が卒業式で、中学三年生たちが、本当に五分前、十分前ぐらいに学校を出て帰宅の途についたところでありまして、先生たちが、自転車があるやつは自転車を貸せと言って、自転車に乗って、百人ぐらいいる私の先輩たちを全員迎えに行ったことも思い出します。その先生たちの迅速な判断と行動によって私たちの学校は被害者が出ることはなかったので、本当にすばらしい行動だったなと今でも感じております。
その後、体育館に避難しましたけれども、電気が、ぶら下がっているタイプの電気だったので、ふだん私はそこでバスケットボールをしていましたけれども、いつも普通にバスケをしているコートでこんなに怖い思いをするのかと思ったことも思い出します。それも含めて、やはり当たり前な状況というものはないんだということを感じる一日だったと思います。
私自身も、母と連絡を取れたのが、約一週間ぐらいずっと連絡が取れずに、安否も分からない状況が続いておりまして、父とは幸い早く合流することができまして、長靴を履いて、波が引いた後の町を歩きました。片側二車線ある国道四十五号線という大きな道路の真ん中におうちが流れて、立っているのを見たりですとか、丸太が家に刺さっているのを見たりですとか、私がふだん通っていた通学路が全く違う光景になっていたことも思い出します。いつも歩いていた道ですとか町の風景も、当たり前が全て壊れた瞬間であったと思います。
だからこそ、ここは外務委員会ですけれども、当時、様々な国の皆さんからも支援いただきまして、私たちを助けてくれたと思っております。私が十四歳から二十九歳になったということは、あの年に生まれた子供たちは、今、十四歳、十五歳になろうとしております。震災を経験したことがない子たちがたくさん増えてきますし、世界でも知らない人が増えてくると思います。
ここは通告していないんですけれども、茂木外務大臣にも、たくさんの支援を世界各国からいただきましたし、私たちはそのおかげで今があると思っておりますので、様々な場で、あのときはありがとうございましたという感謝も是非とも伝えていただきたいですし、これからも東北とともに歩んでいただきたいというところを改めて御答弁いただければと思います。
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茂木敏充(自民)外務大臣
近藤委員は、EUを視察されて、EUでの取組についてお話をいただいたところでありますが、確かに、EUの場合は、もうEUという集合体もできておりますし、地続きであるということで、いろいろ備蓄をしたり、融通をするというのはやりやすいというところで、若干我が国とは違う状況にある部分もあるかと思うんですが、それでも、近隣諸国を含めて助け合いを行っていくということは極めて重要だ、こんなふうに考えております。
まず、我が国の災害時の対外支援について申し上げますと、被災国の要請やニーズを踏まえて、国際緊急援助隊の派遣であったり、緊急援助物資の供与等の迅速な支援を行って…
この発言のページ
86
近藤和也(中道)
時間が参りましたので終わりますが、やはり、受援力ということが災害時においては相当今課題になってきておりますので、こちらもしっかりと高めていけるように、また、各国とも話し合って、そして日本国内でも体制づくりをしていただけたらと思います。
ありがとうございました。
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國場幸之助(自民)
次に、佐々木真琴君。
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- (上の発言)
88佐佐々木真琴(国民)
国民民主党・無所属クラブ、佐々木真琴です。
本日も質問の機会をいただきました。どうぞよろしくお願いを申し上げます。
まず、皆さん触れてもおられますけれども、東日本大震災から十五年を迎えたというところでございます。我々の会の冒頭でも皆さんと一緒に黙祷させていただきましたが、三月十一日、十五回目を迎えました。風化させないという言葉はたくさん聞きますけれども、非常に難しいなと私自身も感じておるところでございます。
岩手県宮古市で震災を経験しまして、私の宿命は、皆さん、一人でも多くの方々にあのときのことを伝えていくことであったりとか、それを教訓にこれからの世界へと生かしていくことが大事だというふうに感じております。
前回お話しさせていただいたとおり、岩手県宮古市で生まれ、十四歳で東日本大震災を経験いたしております。震災は、私にとっても、当たり前というものの価値みたいなものが全て崩れ落ちた瞬間だったなと感じております。
もう少しで二時四十六分を迎えますけれども、私は、その当時、中学校の教室におりました。地震が来たら机の下に潜るという、本当に誰しもが想像できる当たり前すらも行動できないぐらいの大きな地震だったと感じております。その後、校庭に避難しましたけれども、昨日の東京もちらっと雪が降りましたけれども、あのような天気で、とても寒かったことを思い出します。
そして、それと同時に、私は中学二年生でしたけれども、その翌日が卒業式で、中学三年生たちが、本当に五分前、十分前ぐらいに学校を出て帰宅の途についたところでありまして、先生たちが、自転車があるやつは自転車を貸せと言って、自転車に乗って、百人ぐらいいる私の先輩たちを全員迎えに行ったことも思い出します。その先生たちの迅速な判断と行動によって私たちの学校は被害者が出ることはなかったので、本当にすばらしい行動だったなと今でも感じております。
その後、体育館に避難しましたけれども、電気が、ぶら下がっているタイプの電気だったので、ふだん私はそこでバスケットボールをしていましたけれども、いつも普通にバスケをしているコートでこんなに怖い思いをするのかと思ったことも思い出します。それも含めて、やはり当たり前な状況というものはないんだということを感じる一日だったと思います。
私自身も、母と連絡を取れたのが、約一週間ぐらいずっと連絡が取れずに、安否も分からない状況が続いておりまして、父とは幸い早く合流することができまして、長靴を履いて、波が引いた後の町を歩きました。片側二車線ある国道四十五号線という大きな道路の真ん中におうちが流れて、立っているのを見たりですとか、丸太が家に刺さっているのを見たりですとか、私がふだん通っていた通学路が全く違う光景になっていたことも思い出します。いつも歩いていた道ですとか町の風景も、当たり前が全て壊れた瞬間であったと思います。
だからこそ、ここは外務委員会ですけれども、当時、様々な国の皆さんからも支援いただきまして、私たちを助けてくれたと思っております。私が十四歳から二十九歳になったということは、あの年に生まれた子供たちは、今、十四歳、十五歳になろうとしております。震災を経験したことがない子たちがたくさん増えてきますし、世界でも知らない人が増えてくると思います。
ここは通告していないんですけれども、茂木外務大臣にも、たくさんの支援を世界各国からいただきましたし、私たちはそのおかげで今があると思っておりますので、様々な場で、あのときはありがとうございましたという感謝も是非とも伝えていただきたいですし、これからも東北とともに歩んでいただきたいというところを改めて御答弁いただければと思います。
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茂木敏充(自民)外務大臣
東日本大震災に当たっては、被災地の皆さんはもちろんでありますが、国を挙げて復旧復興に取り組んだ。福島の復興なくして東北の復興なし、そして東北の復興なくして日本の再生なし、こういった思いで、オール・ジャパンで取組をしたわけであります。
同時に、そのときに海外から本当に温かい支援の手が寄せられた。このことについては感謝をしておりますし、そういったつながりというのを大切にしながら、人と人とのつながり、国と国とのつながり、こういったものをより大切にしながら、何か困ったことがあったら助け合える、こういう社会をつくっていければと思っております。
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90佐佐々木真琴(国民)
ありがとうございます。
本来であれば私は地元で追悼式に出たかったなと思っておりますけれども、今ここにいるのも、皆さんに押し上げていただいたことと、そして今、私がやるべき使命だなと思っておりますので、その思いを胸に、質疑に入らせていただきたいと思います。
本日は、いわゆる名称位置給与法についてでございますけれども、通告に従って質問をさせていただきたいと思います。
まず、外交というのは、午前中の質疑でもありましたけれども、制度でも組織でもなくて、現場に立つ一人一人がいて成り立つ国家の最前線だというふうに認識をいたしております。
在外公館で勤務されてい…
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茂木敏充(自民)外務大臣
まず、人類というのは移動のたびに生活様式というのを変えてきました。アフリカから始まりました我々の祖先、ホモサピエンス、これは全世界に移動していくわけでありますけれども、このホモサピエンスが生き残った。一方で、体の、個体でいいますともっと屈強であったネアンデルタール人が絶滅をしてしまった。この一番大きな違いは、ホモサピエンスは集団行動をしながら移動したということがある、こんなふうに言われておりますし、アフリカでは、今でも、早く行きたければ一人で行け、遠くに行きたければみんなで行け、こういう言葉もあるわけであります。
そういった中で、大航海時代等でいいます…
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