まさに、それぞれの名、氏というもの、そこは人格権というか、そういったことと結び付いたものであると、そういった認識は私もございます。
鈴木馨祐 (自由民主党)法務大臣
2025年3月26日・第217回国会 参議院 予算委員会 第12号(外部サイト、新しいタブで開きます) の 218 番目の発言(外部サイト、新しいタブで開きます)(全 240 発言)
前後のやりとり
絶対的な戸主権の下で、妻と子は無権利、無能力者とされました。
その家制度が、一九四七年五月、日本国憲法の施行の下で廃止されたわけです。明治民法から四十九年ですね。日本社会の長い歴史から見れば僅かな期間だと思います。
その年の十二月、民法改正によって、氏、氏名は、夫、妻それぞれの個人の呼称、つまり、その人がかけがえのない個人として尊重されるあかしであり、人格権の象徴として大きく変わったのではないのか。法務大臣、いかがですか。
今御指摘のように、昭和二十二年の現行民法、この制定によって「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。」というふうにされました。このことは、当然ながら、その前の明治民法のそのお家という趣旨とは異なるものと承知をしております。
何だかはっきりしないですね。 資料の二枚目に、制定過程で夫婦別姓を提唱された家族法の大家、中川善之助名誉教授の文章をお配りをしています。 この七百五十条、現行の、について、夫婦が自由平等の協議で決めればいいという、公平といえば公平、ずるいといえばずるい方法だと。やっぱりずるいですよね。なぜこうなったかと。煎じ詰めるところ、夫が妻の氏を称するのは恥辱だという偏見が根底にあるのだと思うと。 今を生きる私たちが同じような偏見にとらわれていないのか、我が身を常に顧みるべきだと思います。 第二次別姓訴訟原告の、広島の恩地いづみさんという方がいらっしゃいます…
- (上の発言)
まさに、それぞれの名、氏というもの、そこは人格権というか、そういったことと結び付いたものであると、そういった認識は私もございます。
二〇一五年の最高裁が、家族の呼称という言葉を使いました。人権なのに、家族の呼称とは一体何かと。あるいは、家族の一体感という言い方もあるんですが、これ民事局に尋ねたいんですが、家族というのは、法的にどんな、どの範囲の関係を指すんでしょう。
お答えいたします。
委員御指摘の平成二十七年の最高裁判決の多数意見におきましては、家族の一体感に関する言及それ自体はないものの、家族は社会の自然かつ基礎的な集団単位である、あるいは、家族を構成する個人が同一の氏を称することにより家族という一つの集団を構成する一員であることを実感することに意義を見出す考え方も理解できるところであるなどと判示されているものと承知をしております。
また、民法上、家族という文言やその定義規定は存在をしておりません。
つまり、最高裁が、人権を曖昧にしてアイデンティティーの喪失をもたらすという事態になりながら、その理由として持ち出した家族の呼称という言葉は法的によく分からないということなんですよね。
愛情は国家が強制できるものではないし、すべきでもないということがその背景だと思いますが、男女共同参画担当大臣、家族の在り方とか一体感を育む営みというのは、これ様々じゃありませんか。