資料の二の二の方ですね、最後の二つですけれども。沖縄は、一八七二年、これ廃藩置県の翌年です、もう藩はありません、しかし七二年から琉球藩ができるんです。明治五年のことです、これが、琉球藩がですね。江戸時代ではもちろんないわけなので、琉球藩の場合には、琉球国王に対して、詔勅によって、藩主ではなくて藩王と、藩王に封ずるとなされたわけです。ついでにと言ったら変ですけれども、華族である侯爵ですね、侯爵に列するということも付いておりました。そして、一八七九年、この琉球藩がいわゆる琉球処分によって沖縄県ということになるわけですけれども、これ廃藩置県の置県とはちょっと違っていまして、処分という形で琉球を、琉球藩を沖縄県とするという、処分官が行ってそれを通告したわけです。
そうすると、藩王はどうなったのかといいますと、藩王になった後は、首里城を追われて、結局東京で侯爵として住むということを強制されたわけですけれども、やっぱりこれ、一八七二年から七九年の間に、やっぱり琉球国は、琉球藩、沖縄県と、もう僅か七年の間に非常に大きな変化を、いわゆる力による体制変更というのがあったわけです。東京に強制されましたけれども、移住をですね、逆に来たのが沖縄県知事という形で東京から沖縄に派遣されるということになります、別の方がですね。
先ほども岩屋大臣の方からも説明がありましたけれども、そこの時期がちょうど、修好条約、締結ではなくて、その後の改定の問題が出まして、最恵国待遇をすると、その代わりにということで、宮古、石垣を沖縄から分離して清国に譲渡をするという、こういう二つですね、条件を、入れ替わった条件といいますかね、そういうのを付けて交渉したということですけれども、その交渉の経緯、そしてその結果というのをお聞かせ願いたいと思います。
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中谷元(自民)防衛大臣
今回の事故は、既に回収、保管していた不発弾を業者に渡すための作業の過程で起こったものでありますが、この種の作業については既に今停止をいたしております。
こういったことにつきまして、もう一度、この事故原因の、発生の原因を調査をいたしまして、こういった安全管理を徹底した上で継続することを考えておりますので、現在、事故調査委員会、これの点の処理の在り方について、特に隊員の安全を確保する、また周囲に被害を及ぼさない、こういった不発弾処理の危険性を再認識させて、取扱事項について徹底を図ってまいりたいと考えますし、また、沖縄の県下にはまだまだ多くの不発弾が地中に埋…
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高良鉄美政府参考人など
慎重にも慎重にということで、いろいろあると思いますけれども。
沖縄戦では二十万トン、これ大体、米軍の砲弾が落ちて、一万トンが不発弾だと言われています。その一万トンのうち、米軍とそれから沖縄の住民が処理してきたのが大体五千五百トンぐらい、それで、自衛隊によってまた二千トンぐらいやっていますので、今は大体もう二千トン弱、前後だと思うんですね。でも、これでも、二千トンといったって、これは百キロ爆弾を二十回わあっとやらなきゃいけない、二百回ですかな、もう計算がちょっと、大分ありますけれども。
そこで、やっぱりこの不発弾の問題というのは、実はその処理の問題だけ…
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岩屋毅(自民)外務大臣
高良先生には、大変お疲れさまでございました。いろいろお教えいただいて、ありがとうございました。
御指摘の分島・増約ですけれども、直近まで正直、私存じ上げませんでしたが、調べましたところ、明治四年に締結された日清修好条規を改正し、また中国内部において欧米並みの通商権を獲得するために、当時の明治政府が清国に対して宮古、八重山の二島を割譲することを提案したとされることを指すと承知をしております。
しかし、その後行われた同条規の改正交渉では、最終的に双方で合意に至らず、同条規は、明治二十八年四月に調印された日清講和条約、いわゆる下関条約第六条において破棄され…
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- (上の発言)
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高良鉄美政府参考人など
資料の二の二の方ですね、最後の二つですけれども。沖縄は、一八七二年、これ廃藩置県の翌年です、もう藩はありません、しかし七二年から琉球藩ができるんです。明治五年のことです、これが、琉球藩がですね。江戸時代ではもちろんないわけなので、琉球藩の場合には、琉球国王に対して、詔勅によって、藩主ではなくて藩王と、藩王に封ずるとなされたわけです。ついでにと言ったら変ですけれども、華族である侯爵ですね、侯爵に列するということも付いておりました。そして、一八七九年、この琉球藩がいわゆる琉球処分によって沖縄県ということになるわけですけれども、これ廃藩置県の置県とはちょっと違っていまして、処分という形で琉球を、琉球藩を沖縄県とするという、処分官が行ってそれを通告したわけです。
そうすると、藩王はどうなったのかといいますと、藩王になった後は、首里城を追われて、結局東京で侯爵として住むということを強制されたわけですけれども、やっぱりこれ、一八七二年から七九年の間に、やっぱり琉球国は、琉球藩、沖縄県と、もう僅か七年の間に非常に大きな変化を、いわゆる力による体制変更というのがあったわけです。東京に強制されましたけれども、移住をですね、逆に来たのが沖縄県知事という形で東京から沖縄に派遣されるということになります、別の方がですね。
先ほども岩屋大臣の方からも説明がありましたけれども、そこの時期がちょうど、修好条約、締結ではなくて、その後の改定の問題が出まして、最恵国待遇をすると、その代わりにということで、宮古、石垣を沖縄から分離して清国に譲渡をするという、こういう二つですね、条件を、入れ替わった条件といいますかね、そういうのを付けて交渉したということですけれども、その交渉の経緯、そしてその結果というのをお聞かせ願いたいと思います。
164門門脇仁一外務省大臣官房参事官
お答え申し上げます。
一次資料を網羅的に確認しているわけでは、できているわけではございませんが、資料や研究書、論文等に基づけば、明治四年に締結された日清修好条規には明治政府が求める最恵国条款が含まれていなかったと、このことから、同修好条規の改正等を目的に清国と累次協議が行われ、その中で、日本側より清国側に対し、いわゆる分島・増約が提起されたと承知しております。
先ほど岩屋大臣の方から御説明申し上げましたが、その後行われた改正交渉、実際始まりましたけれども、最終的には双方で合意に至らず、この条規は、一八九五年、明治二十八年四月に調印された日清講和条約、…
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高良鉄美政府参考人など
実はこれ、合意はしていたんですよ。合意があって、宮古、石垣は中国に渡すと、清にですね。その清の方が、これどうかと。要するに、琉球王国という沖縄本島からは来ないのかと。そういうことで、嫌々ながらの合意をしたんです。日本側はこの最恵国待遇を得ると。石垣島でサインをすると、調印をすることまで合意されていて、用意されていたテーブルに着かなかったのが中国です、この清国ですね。だから今、宮古、石垣はあるわけですよ、沖縄県として。
そのときの一つの原因の中に、やっぱり沖縄の琉球藩時代から、その琉球王国時代から官僚として勤めてきた人が、これは大変になると、沖縄は、とい…
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166門門脇仁一外務省大臣官房参事官
網羅的に一次資料を確認できているわけではございませんけれども、例えば、明治十三年十一月十三日付けで井上外務卿から三条太政大臣に宛てた文書においては、琉球の中、宮古、八重山二島をもって清国に属し、もって二国の境界を清め、したがって日清条約を増加し、もって和好を表明するの専約とするという記述があるというのは承知しておりますけど、尖閣諸島への明示的な言及については確認できておりません。
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