大臣、ありがとうございました。
六千万人への対応ということで、今御答弁いただいたわけなんですが、幾つかありました。関西国際空港の発着容量を増大させて、三空港、伊丹、神戸も合わせて五十万回ということで、非常にここはポテンシャルとして高いものがあるんだろうというふうに思います。福岡空港の例も挙げていただきましたけれども。
そして、首都圏においては、やはり成田の容量拡大という、成田空港の更なる機能強化という事業でございますが、これをしっかり着実に進めていくということ、これは、インバウンドだけではなくて、実は国内の最大の貿易港は、量ではなくて額でいけば、もう圧倒的に成田がこれを誇っている、日本経済の成長を支えるという意味でも非常に重要な取組でありますので、是非よろしくお願いしたいと思います。
二月二十四日には、大臣に成田空港にお越しいただいて、御視察もいただいております。ありがとうございました。
ここで、成田の歴史を若干触れさせていただきたいと思っていますが、戦後から我が国の国際航空需要の伸びがあったわけですけれども、羽田空港に頼っていましたが、昭和三十年代から、やはり国際空港の、羽田の拡張が非常に厳しいという当時の見解、それと騒音問題も当時の大田区を含めてありまして、何とか国では新しい国際空港を、新空港を造らなければいけないということで検討が開始されています。
当時の目指した規模は、約二千三百ヘクタール、そして滑走路五本ということで、様々議論があったわけなんですが、ちょうど今から六十年前は、実は、千葉県の今の成田空港の位置ではなくて、そのちょっと西側にある、現在の富里市と八街市というところ、ここに大規模な空港を造ろうとした。六十年前、内定をさせるんですが、実は、これが大反対で大変な騒動になった。千葉県としても、これは困ったということがありました。
その後、政府としては何としても、世界の潮流からしても、国際空港を整備しなければいけないということに至って、探すわけですけれども、翌年の一九六六年、実は、当時、下総御料牧場というところがありました。また、そこの横に、千葉県の所有する県有地があったわけですね。これを中心として、戦後の開拓で広大に広がっていた農地、この民有地を買収をして造ろうということに一気に転換をしていくわけであります。
これが突如として国において閣議決定されたのが一九六六年の七月四日であります。この決定に対しては、当然、地元は大変な混乱に陥るわけでありますが、当初、純粋な空港反対、建設反対という農家の方々、土地の所有者の方々のそういう思いだったんですけれども、そこから不幸な歴史が徐々に始まっていくわけですが、極左暴力集団が介入をして、本来の純粋な農地を守るという運動から、反体制の、国家に対する反対にどんどんどんどん変わっていく。
実は、この成田市三里塚、私の地元であります。生まれ育った地元であります。そして、私は、その年に、閣議決定の年に生まれました。そういった意味で、この全ての歴史を見てきた身として、今また、機能強化によって新しい成田空港、第二の開港を迎えるという、機能を強化して、実は、倍の空港にしようと。
当時、成田空港は、新東京国際空港として、先ほど申し上げた二千三百ヘクタールから思いっ切り小さくして、半分にまでして、何としても造ろうと。ただ、当初目指した開港の予定よりもどんどんどんどん遅れて、開港したのは、閣議決定から十二年経過した一九七八年五月であります。しかしながら、その形は、滑走路が僅か一本、そして、半分にも満たない空港で、羽田空港から国際線を移管をしたという経緯があります。
こういったいろいろな中で、実は、多くの犠牲が払われた事実があります。中野大臣もこの間は献花していただいたわけでありますが、当時、反対闘争が激しくなったときに、東峰十字路事件という悲惨な事件が発生をしました。これは、後方支援に当たっていただいた神奈川県警の特別機動隊の三名の警察官が、過激派暴力集団に襲われて命を失ったわけであります。
それ以後も、私の地元では本当に大混乱で、子供ながらに恐怖を覚えながら私は育ってきました。その原点、これは何かおかしい、国は決めるんですけれども、この状況は何とか打破しなければいけないと思ったのが、実は、私が政治に入ったきっかけであります。
そういった意味で、国が決めた国家プロジェクトを、途中は国としてなかなか成田が厳しいということで、いろいろな策を講じてもなかなか進まない中で、今や主要な国際線が羽田へ移管しているというような実態もあって、なかなか難しい歴史があったわけですが、実は悔しい思いをしているのが正直なところであります。こうしたいろいろな歴史を踏まえながらも着々と進めてきたわけですが、また新たに、今度は千ヘクタール、もう一度内陸でもしっかりと造っていこうという判断をしていただいて今に至っています。
今お話ししたような話がありますが、この成田空港の更なる機能強化、実は、二〇二九年三月を目途に、新しい滑走路、三千五百メートルの滑走路と、今のB滑走路を三千五百メートルへ延伸する、この主な二つなんですけれども、これが残り期限を考えると約四年ということになりました。そういった意味で、現在までの事業の進捗状況というのが非常に気になってくるところでありますが、現在どのような状況か、お伺いをしたいと思います。
264
谷公一(自民)
これにて田村智子さんの質疑は終了いたしました。
次に、小池正昭君。
この発言のページ
265小小池正昭(自民)
千葉十区選出の小池正昭でございます。昨年の選挙で初当選でございます。今日はどうぞよろしくお願いいたします。
まず、今日、国土交通関係、幅広くあるわけなんですが、航空関係と成田空港の関係、私の地元でもありますので、お聞きしていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。
まず、最近の訪日外国人の増加というのは、しっかりと堅調に推移をしているわけでありますが、特に、コロナ禍前を超えて過去最高ということで非常に順調に来ている、二〇三〇年六千万人というのが本当に視野に入ってきているんだと思います。実数値で、二〇二四年、三千六百八十六万九千九百人ということです…
この発言のページ
266
中野洋昌(公明)国土交通大臣
小池委員の御質問にお答えを申し上げます。
まさに委員が御指摘いただきましたとおり、政府の成長戦略の柱とされているこの観光の分野におきまして、二〇三〇年訪日外国人旅行者数六千万人という目標を達成をするためには、成田空港は御地元ということでございますけれども、首都圏の空港を始めとする全国の空港の機能の向上というものを図る必要があるというふうに考えております。
このため、羽田空港、関西国際空港等におきまして、飛行経路の見直しにより発着枠を増加をさせるとともに、来月二十日には、福岡空港におきまして、二本目の滑走路の供用を開始をするところでございます。そして、…
この発言のページ
- (上の発言)
267小小池正昭(自民)
大臣、ありがとうございました。
六千万人への対応ということで、今御答弁いただいたわけなんですが、幾つかありました。関西国際空港の発着容量を増大させて、三空港、伊丹、神戸も合わせて五十万回ということで、非常にここはポテンシャルとして高いものがあるんだろうというふうに思います。福岡空港の例も挙げていただきましたけれども。
そして、首都圏においては、やはり成田の容量拡大という、成田空港の更なる機能強化という事業でございますが、これをしっかり着実に進めていくということ、これは、インバウンドだけではなくて、実は国内の最大の貿易港は、量ではなくて額でいけば、もう圧倒的に成田がこれを誇っている、日本経済の成長を支えるという意味でも非常に重要な取組でありますので、是非よろしくお願いしたいと思います。
二月二十四日には、大臣に成田空港にお越しいただいて、御視察もいただいております。ありがとうございました。
ここで、成田の歴史を若干触れさせていただきたいと思っていますが、戦後から我が国の国際航空需要の伸びがあったわけですけれども、羽田空港に頼っていましたが、昭和三十年代から、やはり国際空港の、羽田の拡張が非常に厳しいという当時の見解、それと騒音問題も当時の大田区を含めてありまして、何とか国では新しい国際空港を、新空港を造らなければいけないということで検討が開始されています。
当時の目指した規模は、約二千三百ヘクタール、そして滑走路五本ということで、様々議論があったわけなんですが、ちょうど今から六十年前は、実は、千葉県の今の成田空港の位置ではなくて、そのちょっと西側にある、現在の富里市と八街市というところ、ここに大規模な空港を造ろうとした。六十年前、内定をさせるんですが、実は、これが大反対で大変な騒動になった。千葉県としても、これは困ったということがありました。
その後、政府としては何としても、世界の潮流からしても、国際空港を整備しなければいけないということに至って、探すわけですけれども、翌年の一九六六年、実は、当時、下総御料牧場というところがありました。また、そこの横に、千葉県の所有する県有地があったわけですね。これを中心として、戦後の開拓で広大に広がっていた農地、この民有地を買収をして造ろうということに一気に転換をしていくわけであります。
これが突如として国において閣議決定されたのが一九六六年の七月四日であります。この決定に対しては、当然、地元は大変な混乱に陥るわけでありますが、当初、純粋な空港反対、建設反対という農家の方々、土地の所有者の方々のそういう思いだったんですけれども、そこから不幸な歴史が徐々に始まっていくわけですが、極左暴力集団が介入をして、本来の純粋な農地を守るという運動から、反体制の、国家に対する反対にどんどんどんどん変わっていく。
実は、この成田市三里塚、私の地元であります。生まれ育った地元であります。そして、私は、その年に、閣議決定の年に生まれました。そういった意味で、この全ての歴史を見てきた身として、今また、機能強化によって新しい成田空港、第二の開港を迎えるという、機能を強化して、実は、倍の空港にしようと。
当時、成田空港は、新東京国際空港として、先ほど申し上げた二千三百ヘクタールから思いっ切り小さくして、半分にまでして、何としても造ろうと。ただ、当初目指した開港の予定よりもどんどんどんどん遅れて、開港したのは、閣議決定から十二年経過した一九七八年五月であります。しかしながら、その形は、滑走路が僅か一本、そして、半分にも満たない空港で、羽田空港から国際線を移管をしたという経緯があります。
こういったいろいろな中で、実は、多くの犠牲が払われた事実があります。中野大臣もこの間は献花していただいたわけでありますが、当時、反対闘争が激しくなったときに、東峰十字路事件という悲惨な事件が発生をしました。これは、後方支援に当たっていただいた神奈川県警の特別機動隊の三名の警察官が、過激派暴力集団に襲われて命を失ったわけであります。
それ以後も、私の地元では本当に大混乱で、子供ながらに恐怖を覚えながら私は育ってきました。その原点、これは何かおかしい、国は決めるんですけれども、この状況は何とか打破しなければいけないと思ったのが、実は、私が政治に入ったきっかけであります。
そういった意味で、国が決めた国家プロジェクトを、途中は国としてなかなか成田が厳しいということで、いろいろな策を講じてもなかなか進まない中で、今や主要な国際線が羽田へ移管しているというような実態もあって、なかなか難しい歴史があったわけですが、実は悔しい思いをしているのが正直なところであります。こうしたいろいろな歴史を踏まえながらも着々と進めてきたわけですが、また新たに、今度は千ヘクタール、もう一度内陸でもしっかりと造っていこうという判断をしていただいて今に至っています。
今お話ししたような話がありますが、この成田空港の更なる機能強化、実は、二〇二九年三月を目途に、新しい滑走路、三千五百メートルの滑走路と、今のB滑走路を三千五百メートルへ延伸する、この主な二つなんですけれども、これが残り期限を考えると約四年ということになりました。そういった意味で、現在までの事業の進捗状況というのが非常に気になってくるところでありますが、現在どのような状況か、お伺いをしたいと思います。
268平平岡成哲国土交通省航空局長
お答えをいたします。
成田空港では、先生御指摘のとおり、更なる機能強化が進められているところでございまして、B滑走路の延伸とC滑走路の新設、これを進めているわけでございます。
これまで、成田空港会社が用地の取得や土質調査、埋蔵文化財調査などを進めているほか、現在は、東関東自動車道の地下化やC滑走路を横断する車道のトンネル工事など、本格造成工事前の準備工事に取り組んでいるところでございます。
二〇二九年三月目途の供用開始を目指しまして、国といたしましても、成田空港会社と連携して、引き続き着実に取り組んでまいりたいという考えでございます。
この発言のページ
269小小池正昭(自民)
ありがとうございました。
今、事業が着々と進められているということで、成田空港の歴史、先ほどちょっと触れましたけれども、実は、国は一度は、やはり成田の難しさから、空港建設というのはなかなか内陸の空港というのはもう難しいだろうと、騒音問題もありますし、環境問題、今、成田でもありますが、落下物の問題とかあって、一時は空港をやはり海上空港に造る、これが今の関西国際空港であり、常滑沖の中部国際空港ということになります。
しかしながら、これからの我が国の方向性を考えたときに、この首都圏の大きな航空需要を担うのは、では、どこができるのかといったときには、やはりも…
この発言のページ
270
中野洋昌(公明)国土交通大臣
お答え申し上げます。
成田空港、まさに本当に様々な経緯のある中で整備してまいりましたので、委員の歴史的ないろいろな御指摘もしっかりと私も聞かせていただきながら、しっかりと更なる機能強化に取り組んでまいりたいというふうに改めて思ったところであります。
二月の二十四日に成田空港を視察をさせていただきました。B滑走路を延伸をし、そしてC滑走路を新設をするという更なる機能強化、これの必要性、そして、地元の自治体の首長の皆様とも意見交換させていただきましたので、御地元の期待というのもまた改めて実感をしたところでございます。
国際線の基幹空港としての成田空港の…
この発言のページ