大石あきこ (れいわ新選組)

2025年6月13日・第217回国会 衆議院 文部科学委員会 第16号(外部サイト、新しいタブで開きます) の 74 番目の発言(外部サイト、新しいタブで開きます)(全 76 発言)

ありがとうございます。

お二人のお答えとも、やはり政治的だったり文科省の方での見えない力といいますか、学校の先生が思考停止したり硬直化している性質だというよりは、もうちょっと違う、見えない力といいますか、そういう空気によって、通知が厳格に守らないと死ぬものみたいなルールとして機能してしまっているのかなと思いました。

先ほどの三十五の倍数という話も、滑稽といえば滑稽なんですよね。究極、裁量とは何かというと、これは五十に必ずしもしなくていいぞという話があればそうはならないわけですけれども、三十五の倍数でないことによっていろいろな混乱を来すというのは、確かに私の子供も、先ほどランドセルのお話もありましたけれども、ランドセルにちゃんと入らないんですよね、時間割りが。何かちょっと、線とかが引いてあって変なんですよね。そういうのがここに、私の時代のシンプルな時間割りではなく、表現に苦労されていて長く伸び過ぎて入らないとか、そういうことがつながっているのだなというふうには思いました。

私は、学習指導要領は、もう本当に、守らないと死ぬみたいなのを崩したいなと思いまして、それが実は、子供たちの憲法上の教育を受ける権利ですとか個人を尊重される権利というのが守られ、かつ、学校の先生も、人たるに値する生活を営む権利を保障するという労基法の定めを守ったような先生の生き方ができるという両立のためには、この学習指導要領が罰ゲームとして機能しているというのはやはり崩す必要があると考えます。やはり政治的とか又は文科省の力が働いているという御示唆だったとしたら、そこは、私なり、立法府の責任というのは大きいんだろうと思っています。

学習指導要領の、いろいろ調べたんですけれども、やはり、法的性質として、絶対守らないといけないものではないはずなんです。かつ、それはすごく大事なことで、元々学習指導要領ができたときというのが一九四七年なんですけれども、こう書いてあるんですね。

学習指導要領一般編(試案)、この書は、学習の指導について述べるのが目的であるが、これまでの教師用書のように、一つの動かすことのできない道を決めて、それを示そうとするような目的で作られたのではない、新しく児童の要求と社会の要求とに応じて生まれた教育課程をどんなふうに生かしていくかを教師自身が自分で研究していく手引として書かれたものであるというのが、一九四八年、学習指導要領の起こりなんです。

この起こりには私はすごく意味があると思っていて、これは一九四八年、いわゆる戦後ですけれども、やはり、憲法の前文にもあります、政府が再び戦争の惨禍を起こすことのないようにということで、どういうメカニズムで戦争が起きたのかということに着目しますと、政府が教育だったり学術、学問に介入してはいけないんだという、そういう線引きのために、憲法もあるし、様々な法律にも反映していった。それは学習指導要領の哲学もそうであります。それが時代によって少しずつ変えられてきて、法的性質を帯びさせられてきたかのようになっています。

しかし、最高裁判決というのが多分唯一なんですけれども、学テの最高裁判決というのが、北海道の学テの判決がありまして、この判決をめぐってはいろいろな解釈が存在するんですけれども、共通の理解している部分としては、北海道の、昭和五十一年五月二十一日の、最高裁大法廷判決なので非常に重いものなのですが、そこで四原則が示されています。

済みません、まとめますね。四原則だけ言わせてください。

学習指導要領には法的拘束力を予定していない部分があること、細か過ぎるなど法的拘束力を持つべきではない部分があること、学習指導要領は地域及び教師の自主的教育の余地を十分残していること、学習指導要領は教師に一方的教育内容を強制していないことという四つの原則が、最高裁大法廷でも確認されているんですね。

だから、やはり、学習指導要領に従わなかったら死ぬんだ、罰ゲームみたいな世界というのから解放するということが、これは子供のためにも教師のためにもなると考えています。

時間が来たので、私の演説になって終わってしまいましたが、ありがとうございました。終わります。

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